隠された条件 〜西洋思想史 第1回 オマケ〜

こんにちは、Kです。

今日も西洋思想史についてです。

前回の記事については大体理解できたでしょうか?


私は何名かの方とメールのやり取りをして、
自分の至らなかったところや
説明足らずなところを多く学びました。

わからないところを指摘してもらうだけでも
そこを説明するために頭がフル回転しますので
たくさんのことに気づけるんですよね。

自分がまったく想定していなかった視点を
提供してくださった方もいて、
やり取りしていて楽しくなりました。


メールを送ってくださった皆さんには
本当に感謝してもしきれません。

ありがとうございました!


さて、今回の内容はセミナー的には
前回の補足みたいなものです。

メインテーマどころか
ほとんど取り上げられてなかったんですが、

案外私たちにとっては最も重要な話に
なるんじゃないかな

と思ったので今回記事にしてみました。


テーマはこれ。


水掛け論の構造はわかった。


でも、相手に議論をかみ合わせる気がない場合どーすんの


では、頑張ってまいりましょう。




【前提の前提論】


前回、水掛け論は主張やその主張の根拠などが
かみ合っていないことによって起こる
議論であることを説明をしました。

だからこそ、水掛け論を回避するためには
相手がどこから話しているかを理解し、
共通の土台から議論を始めなければならない。


これが水掛け論を回避する(恐らく)唯一の方法です。


ただ、です。


水掛け論を回避する方法を実践するためには
「隠された条件」があります。


これは皆さん気づいていると思うので
もったいぶらずに話してしまいますけど、


「お互いが議論をかみ合わせようとがんばる」


ということです。


お互いが好き勝手に話すのではなく、
水掛け論にならないように努力していることが
条件になっているんですね。


結論ありきで語るのではなく、

自分の方が正しいと思いこむこともなく、

相手を説得しようと思うこともない。

必要とあらば自分の主張から離れ、自由な思考ができる。


まあここまでは求めなくとも、
少なくとも相手と議論をかみ合わせようとする
意思が最低限必要になるわけです。


・・・でも。

でもですよ?

そもそもそんな議論見たことあります?

そんな素敵なことができる人周りにいます?

って話なんです。


今までにも何回か言及してきましたけど、
人間って案外人の話聞いてません。


このことはどれだけ私たちが
水掛け論の構造を理解し、その対策について
習熟したとしても恐らく変わらないことだと思います。


相手と議論をかみ合わせようとしても、
相手がその土俵に登ってこない。

そもそもこちらの意見を聞く気がなく、
ただ自分の勝手な意見を押し通したいだけ。

自分の正しさを相手に認めさせるためだけに
私たちに何かを語ってきたとしたら、
私たちはどうすればいいんでしょうか?


これ、セミナーでも質問が出ていました。


「私たちが相手に譲歩(合わせる)することはできるが
相手がこちらの話に乗ってくる気がない場合は
どうすればいいんでしょう」



みたいな質問でした。


たぶん私たちに永遠について回る問題なんでしょう。


だからこそ、どうすればいいかぜひ考えてほしいんです。


どうしたらいいと思います?


・・・


ちなみに木坂さんはなんと答えたか。


いろいろ答えてましたけど、結論はこんなでした。




「話すだけ無駄」




・・・


もちろん、絶対無理だからやめとけ、
みたいな話ではありませんでした

究極的には無駄ではないですし、
そこまでの覚悟があるのであれば、
きっと取り組む価値はあるんでしょう。


実際そのセミナーで質問をした人は、
その相手は「家族」だそうです。

長い期間付き合わねばならないのですから、
今のうちに頑張るのは
まあ投資としてはありなんでしょう。

ハイリスクハイリターンですけど。


なんにせよ、です。


この木坂さんの結論には、

「最低限お互いが水掛け論を回避しようとする意思を持っている」

ことが前提にあります。

ですからそうではない人たちを相手にする場合、
まずはそういった心構えを持ってもらうことから
始めなければならないんですね。

それができて初めて
セミナーで紹介されていることが
意味をなすようになるからです。


そういう意味で、


・聞く耳を持たない人や団体
・結論ありきで語ってくる人
・傲慢な人
・無知な人



こういう人たちはそもそも議論を成立させる
条件を満たしていません。


だから、話すだけ無駄なのです。


木坂さんの話は決して
どんな人とでも議論を成立させるような
そんな魔法では決してありません。

むしろ今まで話してきた
非常に難しい条件を満たした上で初めて
機能する「技術」と言えるんですね。


ですから、もし少しでもそんな魔法を求めて
しまった人は考えを改めてほしいと思うし、

ちょっとキツイ話をすると、
むしろそういうのを求めること自体が
傲慢だと私は思います。


なぜなら、

自分が上述したような人間ではない

そうなぜ言い切れるのか。

そう思うからです。


議論は2人以上で行うものである以上、
水掛け論になる原因は私たちにもあります。

それを相手のせいにしている時点で
私たちは無知かつ傲慢になっていることを
気づかなければいけないんですね。


「こっちはこんなに頑張って話してるのになぜわかってくれないんだ!」


なーんて思っちゃった日には
完全に相手の話を聞く気がないわけですから。

私たちがそうなってしまったとき、
私たち側が提供してしまった水掛け論が
自身を襲うことになります。


そうならないように注意しておきたいですね。

もちろん自戒の意味も込めて、ですけど。

気をつけたいところです。


さて、このことについて
もう少し詳しく言及しておきます。


相手が結論ありきで物事を語っている場合、
そこに前提の話をしたり客観的データを
投げ込んだりしても水掛け論にしかなりません。

これは最初に言ったように
相手に議論をかみ合わせる気がないからですが、
そこに今までの話を踏まえると


「相手が自身の土俵から動かないから」


とも言い換えることができます。


そして、そういう土俵ってのは多くの場合
「善悪」の土俵であることが多いです。

これはよいことだ、悪いことだ、
そう決めつけてしまった場合、
それ以外の意見は基本的に受け入れられません。


原発は悪だ今すぐ廃止しろ。

殺人は悪いことだ。

金持ちから税金を取るのはいいことだ。


そう決めつけている人たちに対して
私たちが何かを言ったとしても
相手が土俵を移動することはまずありえません。

このことは、何かしらを決めつけている人と
話したことがある人ならきっと納得できることでは
ないかと思います。

大抵の場合ものすごい反発に合います。


結局、こういう人たちとの水掛け論を回避するには、
話半分に聞き流すか、相手の話を受け入れる、

つまり、私たちが同じ善悪の土俵に移動するしか
なくなってしまうんです。


これがセミナーで質問していた方の

「こちらが譲歩すれば・・・」

という言葉の意味です。

譲歩して、相手の主張を受け入れて
とりあえずうんうんそうだねと言っておけば、
水掛け論自体は回避できる。

相手も気分良く話を終えることができ、
人間関係はそれなりに維持はできるでしょう。


ただ、です。

これを「議論」という観点から見たとき、
相手に譲歩し、相手の土俵に合わせた先にあるのは
私たちの「迎合」か「反目」だけですよね。

だって相手が動かない以上、
私たちが相手の意見を受け入れるか
受け流すか拒絶するしかないですから。


あと取れる選択肢と言えば

「関わらない」

くらいです。


木坂さんの「話すだけ無駄」にはここに理由があります。

相手が動かない以上、こちらが動くしかない。

でもそれは私たちにとって意味のあるものにはならない。

だから、関わらない方がいい。

そういうことです。


何度も言いますが、水掛け論を防ぐためには
「お互いの議論をかみ合わせる努力」
が必要です。

そしてその前提を満たす人は多くなく、
それだけ水掛け論を回避できる条件を満たした
議論をする自体が難しいんだ、ということです。


ここでもう一度スライドを確認してみましょう。


• 全てのテーマにおいて存在を基礎に置くべきかはわからない
• しかし、「現実生活」に関わる問題の場合、存在を無視して善悪の議論や認識の議論に立ち入ると、大体の場合水掛け論になる
1. どんな主義・主張を持っている人でも乗らざるを得ない土台は何か
2. 議論を成立させるための(隠された)条件は何か
• これをまずは考え、共有することに時間をかける



ここには、例えお互いが議論をかみ合わせようと
努力していたとしても、
「善悪」や「認識」の土俵で話してしまうと
水掛け論が待っていることが語られています。

ですから、水掛け論を防ごうと思うなら
基本的には「存在」の土俵から語ろうとする必要がある、
というのが木坂さんの立場です。


それこそ科学的データを持ち出してもいい。

歴史を持ち出してもいい。

いろんなカップルがいる、ということからでもいいです。

いきなり善悪や解釈を持ち出すのではなく、
「こういう事実がありますよね」
と確認することから始めてもいいと思います。


重要なのは、善悪や認識は確認が難しいのに対して、


「存在」だけは目で確認できる


つまり、お互いが共有できる可能性を持っている、

という点です。

善悪や解釈は確認のしようがありませんから、
「違うでしょ」って言われたら
それまでになってしまいます。

ですから、そうならないために
お互いが「存在」を基礎において語る必要がある、
というのがセミナーの結論で、それが

• 全てのテーマにおいて存在を基礎に置くべきかはわからない

という記述に現れているわけです。


「全てのテーマにおいてはわからない」

ということは、大抵の場合は「存在」から語った方が良い。

ということですからね。


もちろんテーマにっては、
善悪や認識でもいい場合はあります。

ただ、善悪や認識を基礎に置く場合は
先にも述べたような「リスク」があります。

それを回避するためには善悪や認識ではなく、
確認可能な「存在」の立場にお互いが立ち、
そこから議論を組み立てていく方がいいよね。


というのがセミナーのお話になるんですね。


そういう意味でこのセミナーは

「お互いが水掛け論を回避する意思」

を前提とした上で、さらに

「お互いが存在の土俵から語ろうとすること」

を求めていて、かつ、

「実際に私たちが自由にできるようにする」

ということを目的にしたセミナーです。


二重にも三重にも条件があるんですね。


ですから当然、そんなことができる人は
この世にほとんど存在しないわけで、

インプットクラスに出ている人たちですら
(私は出てないので実情は知りませんが)
水掛け論が多くなってしまうんです。


ですが、ほとんどいないということは
それができればそれだけで頭1つ抜けることが
できるということでもあります。

それを目指すにせよ目指さないにせよ、
自身がどこから語っているか、
自身が物事を考えているのか、ってことを
振り返ってみる価値はあると思いますし、

過去が経験した水掛け論を思い出して
その構造を分析してみるのも
おもしろいのではないかと思います。


いずれにせよ、相手が土俵から動かない場合には
あまり関わらない方がいいですね。

そして、自分もそうなってしまわないように、
できる限り注意しましょう。

せっかく議論をするんですから、
少しでも有意義なものにしていきたいですからね。


はい、というわけで、今日はここまで。

それではまた。

ありがとうございました!







P.S.

西洋思想史第2回を記事にするに従って、1つワークを。

原発に賛成か反対か。

水掛け論にならないよう、自分の意見を論じてください。


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