話を通じさせるために 〜西洋思想史 第1回〜


こんにちは、Kです。

久々の連続記事更新で頭が悲鳴を上げています。

さらに新しいセミナーの告知が来ました。

嬉しい悲鳴です。


さて、今回も西洋思想史の第1回のアウトプットです。

前回はスライドをお見せして終わっていましたが、
何名かの方が自分なりのアウトプットを
送ってくれました。

久々の記事更新、メールにも関わらず、
ありがたいことだと思います。

まだメールは返せていませんが、
送ってくださった方には歴史・地政学の方の記事も
見ていただきたいなと思っています。


個人的にもすごく刺激になりましたので、感謝を。

ありがとうございました。

ただ、メールの返信はもう少しお待ちください・・・。

この記事の後で書きます故。


それでは今回もよろしくお願いします!




【水掛け論の解剖学】


ではまずスライドの確認から

• 全てのテーマにおいて存在を基礎に置くべきかはわからない
• しかし、「現実生活」に関わる問題の場合、存在を無視して善悪の議論や認識の議論に立ち入ると、大体の場合水掛け論になる
1. どんな主義・主張を持っている人でも乗らざるを得ない土台は何か
2. 議論を成立させるための(隠された)条件は何か
• これをまずは考え、共有することに時間をかける

でしたね。


んで、まずは水掛け論ってなんなのか
ってことから押さえておきたいと思うのですが、
水掛け論とは

「何かがかみ合っていない」

そんな議論のことです。


かみ合わないから、平行線。

かみ合わないから、理解できない。

ここは送っていただいたメールを見ても
そんな感じになっていたので問題ない
と思います。


じゃあ、何がかみ合っていないのか、
その原因について見ていきましょう。


原因として考えられるのは大きく2つ。


1.主張がかみあっていない
2.前提がかみ合っていない



この2つです。


1についてはわかりやすいですね。


例えば「これはいい」という意見に対する
これはよくないよという意見とか。

「これがうまい」に対して
えーまずくね信じられない味覚大丈夫?
とか。

「こういうデータがあるでしょ」に対して
いやいやこんな反証もあるんだよとか。

こういった感じでかみ合わないパターンが
1のパターンです。


ただまあ、この辺に関してはあんまり
酷い水掛け論にはなりません。

なぜなら何がかみ合っていないのかが
わかりやすいからです。

随時修正したり水掛け論になる前に
議論を終えたりできる分まだマシです。


※とは言え、この状態でもどうしようもない
水掛け論になってしまう場合もけっこう
(というか多々)ありますけどね。

ただこれに関しては別の理由があったりするので
詳しくは後述です。

ヒントは「結論ありき」です。


じゃあ2にいきましょう。


2の「前提がかみ合っていない」ですが、
水掛け論のめんどくさいところ、
というか本質はこっちです。


ここで少しスライドに踏み込んでみますが、

• 全てのテーマにおいて存在を基礎に置くべきかはわからない
• しかし、「現実生活」に関わる問題の場合、存在を無視して善悪の議論や認識の議論に立ち入ると、大体の場合水掛け論になる
1. どんな主義・主張を持っている人でも乗らざるを得ない土台は何か
2. 議論を成立させるための(隠された)条件は何か
• これをまずは考え、共有することに時間をかける


「土台」や「隠された条件」という言葉が
出てきていますよね。

これどういう意味かわかりますか?

ちょっと考えてみてください。


・・・


考えました?


はい、これなんなのかっていうと、
簡単に言うとその人の中にある

「常識」

です。


もちろん常識って言葉は私の超訳なので、
厳密な意味ではありません。

ただ、私たちが何らかの主張をする際には
言葉にしない暗黙の前提がありますよね。

それは価値観や信念であったり、
人から聞いたこと、理想、科学的データ、
宗教、法だったりまあいろいろです。


例えば中世の哲学的な議論なら、
「神」が前提とされていないものは存在しません。

それはその世界の人々にとって
神の存在は常識だったからです。


あるいは、物理学ならニュートンだったり
アインシュタイン、量子論だったりします。

もっと踏み込んでしまえば
ユークリッド幾何学ですよね。


彼女が彼氏に何か言う場合もそうです。

例えば彼女が彼氏に文句を言う場合、そこには
「カップルとはこういうものでしょ!」
という彼女の経験や理想があることが多い。

これはその彼女にとって当たり前の常識があり、
それに反しているからこそ文句を言うわけです。


いずれにせよ、私たちの言動の背後には
必ず何らかの背景や根拠となるものがある。


これが隠された条件や土台の意味です。


で、大事なのは、


この土台や条件は人によって違っている


という点。そして、


その土台や条件から議論を組み立てている


という点です。


・・・そろそろ見えてきましたか?


つまり、水掛け論が起こる原因というのは


お互いが好き勝手に自分の常識から議論を組み立てて話している


ここに集約されていくと私は思っているんです。


議論の前提がかみ合ってないのに
好き勝手話されたらそりゃあ水掛け論に
なってしまいますよね。


ちなみに今回木坂さんはこの言動の前提となる
常識や根拠となるものを3つに分類していて、
それがスライドに出てくる

1.善悪
2.認識
3.存在


という3つの言葉です。


これらの詳細は後ほど解説しますが、
水掛け論はこれらの前提の部分が
かみ合わないからこそ

相手の議論の意味や意図、
なぜそういう発想になるのかが
わからなくなってしまうのです。


例えば。


あるお母さんが今の世の中を
「学歴社会」と捉えたとします。

これは認識の議論の話になりますが、
そう認識すれば当然ながら

「子どもをよい大学に入れることが親の役目」

となってきます。


古い家で育ったお母さんは
「女の子は勉強よりも品性を身に付けることが大切」
と考えるかもしれません。


「早期教育が脳の発達を阻害する」
という研究結果を見つけたお母さんは、

幼少期は早期教育を受けさせるのではなく、
子どもに様々な刺激を与えつつ、
自由に育てるべきだと考えました。


もしそれぞれの立場に立ったお母さんが
我が子の教育について議論した場合、
まず話がかみ合わないことがわかると思います。

前提が合わないですし、
そこから導き出されている結論も違うからです。

仮にお互いが結論だけ言ったとしたら
もうとんでもないことになるのが
予想できますよね。


「勉強すべきだ」
「品性が大事だ」
「早期教育は危険だ」



想像するだに恐ろしい・・・。


しかも面倒なのは、
気づいた人もいるかもしれませんけど、
(というか気づいてほしいんですけど)

最初のは「認識」から善悪を論じています。

2人目は初めから「善悪」です。

3人目は「存在」から善悪を語っています。


このように同じ善悪を語る場合でも、
「善悪」の土台から語っている場合もあれば、
「認識」から語っている場合もある、
「存在」から語っている場合もあるんです。


で、こういったそれぞれの土台がズレていると
そもそも土俵が違うわけですから
かみ合わないどころか理解すらできません。

それこそ片方は海の中にいて
もう一方は空の上にいるようなものだからです。

相手がどこにいるのかすら認識できなければ、
相手の言いたいことを理解することができないのは
当然の成り行きですよね。


もう少し踏み込んでみましょう。


・・・と、その前に3つの言葉をもう少し詳しく解説します。



1.善悪


善悪的な議論とは何がよくて何が悪いか、
こうあるべきという規範的な「べき論」だったり、
好きか嫌いかなどの議論を指します。

例えば、

「彼氏とはこうあるべき」

とか、友達と仲良くしましょう的な
学校的価値観も同様です。

反射神経的な原発反対とかもそうで、
そういう人たちは「原発=悪」という構図を
(その正誤は別として)採用しています。

そのことが善いか悪いか、ということを
前提として話すのがこの善悪の議論です。



2.認識


「認識」は物事をどう見るか、
何かに対する視点や解釈を元に
議論を組み立てることを指します。

木坂用語で言うと
「どんなフィルターを通して見ているか」
がそれに当たりますね。


先ほどの例を使えば、今の世の中を
「学歴社会」と認識したわけです。

当然、今の世の中を起業家の時代、
あるいはグローバル社会、と視点を変えれば
子どもをどうするかも変わってきますよね。

同じ社会でも見方次第で結論が変わってくる。

この辺が認識の特徴です。



3.存在


最後の「存在」は、実際どうなのか、
科学的、統計的にどうなのか、
などどいった現実的な見方を指します。

科学的な論文とかはたいていそうですし、
自分の仕事のスケジュールを見せて
忙しさを訴えるのはこの辺です。


ちなみにちょっと注意してほしいのは

「人間は善なる存在だ」

という性善説的な立場は「認識」です。

それは人間を善と「解釈」しているだけであり、
実際にどうかは立場が分かれますよね。

性善説もあれば性悪説もある、
政治的動物という人もいれば
精密に動く機械という立場を取る人もいる。

この辺はすべて

「人間をどう解釈するか」

という「認識」の範疇で、
「存在」の議論ではないという点を
注意しておいてください。

「存在」の議論とは
できる限り現実をありのまま描写する
ことで成り立つ議論になります。


以上、

善悪、認識、存在

を解説してみました。


このことを理解すると、水掛け論が
この3つの土台のズレからきていることが
非常に多いことに気づくと思います。


特に多いのは


片方が善悪から語っていて片方は認識か存在から語っている


パターンです。


一部の原発反対派の議論はその典型です。

どんだけ根拠を出そうが原発は悪の一点張り。

怖いもんは怖いんだよ。

実際はどうなのかは関係ないわけです。


また、彼氏彼女とかの
「私と仕事どっちが大事なの!?」
とかもそうです。

これは一見男性からすると認識の
議論に思えてしまいます。

どっちが大事だと思っているか、
その2択を迫られているように感じるからです。


でも実際は善悪の議論です。


なぜならこれは極端な話、
「彼氏ならもっと彼女を大事にするべきだ」
という規範的な話をしているからです。

それに対してこんだけ忙しいんだとか、
お前が大切だ愛してるぜベイビーとか
言っちゃおうものなら水掛け論まっしぐら。

彼女は彼氏がどう思っているか、という
認識の話を聞いているわけではないんですね。

大抵この根っこにあるのは「寂しい」である
ことからもこのことがわかります。


なんにせよ、こういうような前提のズレが
私たちの間では普通に起こっている、
ということが問題なんです。


そしてその原因が、スライドにもある、
共通の土台や条件を共有する気がない。

つまり、お互いが好き勝手に自分の
言いたいことを言っているから、

という話になってくる。


そういう意味で水掛け論の本質とは、


「土俵が違う状態での言い合い」


というのが正しいんですね。


そこに自分の方が正しいんだとか、
相手を言い負かせてやろうとか
そういった発想が入ってくるともう危険です。

それこそ見事な水掛け論に発展し、
しかもその闘いが「戦闘機vs潜水艦」のような
様相を呈してきます。

お互い相手がどこにいるのかすら分からず、
片やマシンガンを虚空に発車し、
片や魚雷を発射するみたいな。

疲弊と傷だけが残ることになるんです。


少しずつまとめに入ります。


今回のセミナーの結論は、

• 全てのテーマにおいて存在を基礎に置くべきかはわからない
• しかし、「現実生活」に関わる問題の場合、存在を無視して善悪の議論や認識の議論に立ち入ると、大体の場合水掛け論になる
1. どんな主義・主張を持っている人でも乗らざるを得ない土台は何か
2. 議論を成立させるための(隠された)条件は何か
• これをまずは考え、共有することに時間をかける


でした。


土台や条件を共有することに時間をかけるべき。


これは水掛け論が前提のズレから来ていて、
それを修正しないことには
永遠に平行線をたどるところから来ています。

そういう意味で水掛け論とは
そもそも議論の土台にすらあがっていない状態の
ただの言い合いです。

私たちはそんな言い合いにならないように
気をつけましょう。


そんな感じのセミナーになっていました。


そう考えると、思った以上に身近ですよね。

自分はどの土台から語っていたか。

振り返ってみるといろんなことがわかると思います。


以上!


なんかうまく伝えられたかわかんないですけど、
ぜひ水掛け論の構造について復習し、
少しでも回避できるよう頑張ってみてください。

次回は歴史・地政学の方の話を
メンバーページの方でやってみようと思います。

楽しみな方はお楽しみに。


それではまた。

ありがとうございました!





P.S.


1つ解説しそびれたことがありました。

1.主張がかみ合わない

この議論だったら途中で何がかみ合って
いないのかわかるので、
修正したり議論を終わらせることができる。

だから水掛け論になりにくいんだ、
という話をしました。


でも、この議論でも永遠平行線を辿ることもある、
というかけっこうそういう場面も多いです。


これはなぜでしょう。


・・・というのを宿題にしたいと思います。


少しばかり考えてみてください。


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