西洋思想史 第4回

こんにちは、Kです。

今回は西洋思想史の第4回です。

毎度のことながらセミナーのことを伝えようと思うと
語る切り口に悩みます。

皆さんもご存知の通りセミナーってのは
情報量が非常に多いですから
「全部伝える」なんてことは到底できません。


せいぜい1スライドか、セミナーのテーマか、
セミナーの前提になっているものか、
その程度なんですよねー。


ですから皆さんにはぜひセミナーに
行ってみてほしいんですが、
ともあれようやく切り口が決まりました。

今回のテーマは

「科学的視点」

です。


ちなみにセミナーのスライドは
「生と死の間にあるもの(前編)」
というタイトルでした。

当然後編もあります。

それは次回のお楽しみにしつつ、
今回の話に参りましょう。



【科学の功罪】


とりあえずセミナーの流れについては
島田さんが詳しく書いてくれてるので
そちらの記事を見てくださいませ。


今回のセミナーはざっくり言うと

「もう生きられない、と心から思ったら死ぬしかないのか」

というワークからデカルトの考え方にいって、

そっから現象学の話に踏み込んでいった

要はそんな感じでした。


ただこれだけだと情報が足りないと思うので
少しばかり補足をしておきたいと思います。


まずなんでデカルトなのかって話なんですが、
島田さんの記事にもある通り、これが
「考え方の基本」であるってのもそうなんですが、

それ以上に大きいと私が思うのは、
私たちの考え方というか、生きているパラダイムは
ほぼ100%デカルトの考え方と同じと言っていい、
ということだと思います。


なんでかというと、


「考える」ということ
• デカルト(1596年 – 1650年)の“方法”
1. 確実に真であると認めたもの以外は排除する
2. 考える問題を出来る限り細分化する
3. 最も単純なものから始めて複雑なものに達する
4. 全てをちゃんと見直す


こんなスライドが島田さんの記事にも
あったと思いますが
これがまさに科学の思考だからです。


少し細かく見てみます。


1. 確実に真であると認めたもの以外は排除する


これは心とか精神とか魂とかも含めた、
あらゆる不確かなものを排除する。

別の言い方をすれば物事を「対象」として、
概念化したり数量化したりすることも
含みます。


心理学をかじったことがある人は
わかると思いますけど、
あれも割りと統計学を用いる場合が多いです。

例えばアンケートによる得点にしたり、
とかね。

脳科学だと人間の意志とか思考すらも
電気信号とかで表現しちゃうので、
それもわかりやすい例だと思います。


心とか神とか精霊とか持ち出されると
困っちゃうのもこの辺りです。



2. 考える問題を出来る限り細分化する


これもわかりやすいと思います。

要素還元主義

といえば有名だと思いますけど、
要は数学の問題とかをバラバラにして
1つ1つ解いていくやり方です。

1番わかりやすいのは原子論とか量子論ですが、
もっと身近な例で言えば、
例えばりんごが落ちるのを見て、

重力とりんごの形状とそれによる空気抵抗と・・・

みたいな感じで考えるのも一緒です。


何か問題が起きたときに原因を探す、
という思考もまさにこれ。

分析思考みたいなやつですかね。



3. 最も単純なものから始めて複雑なものに達する


これはさっきのにも通じますが、
要はわかるものからやってけ、
ってことです。

細かく細分化して、不確かなものは排除、
その上で1個1個やっていく。

原因を単純化して考えちゃうとかも
その思考の特徴です。



4. 全てをちゃんと見直す


トライアンドエラー。

まあこれはいいですね。



・・・とまあ見てもらえればわかると思いますが、
こういう思考は科学の基本ですし、
私たちも普通にやっています。


島田さんは全然できてないと言ってますが、

(まあその通りなんですが)

それは「正しく」できてない

という意味であって、

考え方としては染み付いているわけです。


んで。


そのデカルト的思考が染み付いているからなんなんだ、
って話なんですが、それが今回のテーマで、

「科学的思考の利点と弊害」

なんですね。


ちなみに、今まで私たちは「共通の土台」の
重要性を学んできたわけですが、
これはデカルトの思考法です。

共通の土台ってのは究極的には
「客観的な定義」を模索して、
それを土台に話しましょうね、ってことですから、

本当に客観的にできるかは別にしても、
少なくとも「会話している人の範囲内」で
共通していないと話にならない。

言葉を不確かなまま使ってちゃダメですよ〜、
というデカルトの考え方の1番に
関係しているわけです。


そういう意味で、厳密に話をしよう、

水掛け論にならないようにしよう

そう考える場合には共通の土台が必須である。

これがデカルト的思考の基本です。


そしてこれが木坂セミナーでも
紹介されたことからもわかる通り、
大抵はこの考え方でうまくいきます。

実際近代はこの考えをゴリゴリに推し進めて
発展してきましたからね。

私たちもこの考え方を正しく用いれば
多くの問題をしっかり捉えることができる。


このことは歴史地政学セミナーでも
多くの情報を集め、それを解釈していけば
「確率」的に未来の予想が立つようになる。

いろんなことを見ることができるようになる、
ということを実践してきています。


ですから、大体はこれでうまくいくわけです。


ただ。


当たり前ですが、そうではない場合もあるわけです。


ここで今回のワークが出てきます。


「もう生きられない、と心から思ったら死ぬしかないのか」


これについてどう思うか。


・・・どう思うか、なんですけど、
これに共通の土台って意味あんのか?
ってことなんですよね。


100%寸分も疑いなく
そう確信してしまっている人。

もし、そういう人が目の前にいたとして、
あなたが何か言おうとする場合。


デカルト的思考だとこうなります。


・なんでこんな追い詰められてんのかな?
・過労?
・大切な人が死んだとか?
・人間関係かな?
・疲れてて一時的に病んでるのかな?



とか。


まあいろいろ分析するじゃないですか。


で、セミナーとかだとこの流れから
こうなるわけです。


「そもそも生きてるって何だろう?」


いやいやいや。


って話じゃないですか。


でも、こうやって聞くと違和感があっても、
私たちは自然とこういう思考をして
しまうわけです。


実際のところ、そういう相手に何か声を
かけようと思う場合に、
私たちはこういうふうに考えるはずです。


「何を言えばいいかなあ」


ですよね?


でもこれって、その背後にあるものを
読み取っていくと


「相手を踏みとどまらせる何らかの方法がある」


って前提に立った思考なんですよ。


つまり、相手は何らかの原因で見方がズレていたり、
何かが歪んでいたりして、正常ではない。

だから何らかの方法を使うことで
相手を「元に戻す」ことができるはずだ。

そんな「薬」的なものがあると考えるわけです。


この思考の背後にあるのは
「客観的かつ普遍的な生の定義」
です。

正常な生を送っているのであれば、
こうはなっていないはずだ。

何か原因があって、
その正常な「生きている」状態から
外れてしまっている。

だからそれを解消しよう、となるわけです。


そう考えると当然ながら正常な生ってなんだろう
って話になるわけで、そう考えればそのうち
「生きるってなんだろう」になるわけです。


いやいやいや、と思っていても、
私たちは自然とそういった「正解」がある的な
思考をしています。

そして、それがいろんなところで
弊害を引き起こすことがあるんですね。


・・・ここまで話せば現象学の意味が
わかってくるんじゃないかなって思います。


この弊害をいかに乗り越えるのか、
ってのが現象学なんです。


ここでスライドを紹介しますが、

現象学の視点
• 「認識は、それがどのように形成されていようと、一個の心的体験であり、したがって認識する主観の認識である。しかも認識には認 識される客観が対立しているのである。ではいったいどのようにして認識は認識された客観と認識自身との一致を確かめうるのであろうか? 認識はどのようにして自己を超えて、その客観に確実に的中しうるのであろうか?」(エドムント・フッサール 1859年 – 1938年)



まあ難しいですけど簡単に言えば

「その人にとっての世界とはその人の主観の中にしかない」

ワークに合わせて言うと

「生きられないと思っている人の見方が大事」

ってことです。


あったりまえなんですが、でも、
今までも話してきた通り、そういう考え方を
自然とできる人はけっこう少ないんです。

ビジネスとかでも”その”顧客にとってどうかが
大事なんですけど、一般化して
「誰にでも響くレター」とか言っちゃうみたいな。

まあそんな感じになるわけです。


客観的な定義なんてできない。

私たちは主観でしか物事を捉えられない。

当然、世界や人生の意味もその人の主観でしかない。

それを無視しちゃダメだろ。

ってのが現象学の根本です。


何度も言う通り至って当たり前の考えなんですが、
哲学や近代、科学とかはこれをずーっと
乗り越えることができなかったんですね。

「心」を不確かなものとして排除して、
パブロフの犬とか電気信号とか、
そっち方面ばっかり研究してきて、

精神病患者には薬を与えて症状を押さえ込む、
みたいな発想ばっかりしてきたわけです。


もちろん、現象学ですべてを乗り越えられた
わけではなくて、この考え方はこの考え方で
問題を多く内包しています。

実際、現象学ってのは主観主義ですから、
「自分の見方がすべて」
って方向に行ってしまいます。


それをさらに突き詰めれば

「自分の見えるようにしか世界は見えない」

って話になるわけで、認識者を
ある意味で「神」的なポジションに
持っていってしまいます。


それはそれで問題で、それを乗り越えようと思うと
ハイデガーとかベイトソンとかの話になり、
その先の現代思想にも発展していく(らしい)んですが

ベイトソンはまだ読めるんですが、
ハイデガーとかマジで意味がわかんないわけで、
私にはまだ早いようです。


・・・なんにせよ。


デカルト的に考えていい場合もあれば
ダメな場合もあるんだぜ、
ってのがまあ今回のポイントです。


特にコンサルだったり講師業だったり、
相手と対話することがある人の場合、
この視点は大事だと思います。

私たちが普通の人と話す場合、
「共通の土台」を設定してくれる人なんて
まずいませんから。

ねえそれどういう意味?どういう定義?

とか聞いたらめんどくさがられます。


定義を聞かれたら相手も客観的な定義を
探してしまいます。

ワークの例で言えば、脅かされているのは
「客観的な生」ではなく
「その人の主観的な生」です。

この場合に限っては客観的な生とか
共通の土台のすりあわせは必要ない。


必要なのは現象学的な視点です。


その人にとって、自分にとって、
今いる世界はどういう意味があるのか、
これを考えるのが現象学で、

時としてはそういう見方で
相手と接する必要がある場合もある
ということですね。


というわけで、ここでワークに戻ります。


「もう生きられない、と心から思ったら死ぬしかないのか」


あなたにとってそう思う状況とは
どんな状況ですか?

客観的な定義とかじゃなく、
あなたがどう思うかを考えてみてください。

そして、そのあなたなりの定義に立ったとき、
死ぬしかないのかどうか、
を考えてみてください。


これがわかれば、けっこういろいろ
わかると思いますよ。

例えば、MSPとか。


そんではまた。

ありがとうございました!



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