教育、人の成長について③ 〜できる子とできない子を考察する〜



こんにちは、Kです。

今回も続きをお話ししようと思います。

ではさっそく。



【成長と教育について③】


前回は人は誰かに教えてもらうよりも
環境から学ぶ生き物であることを
お話ししました。


このことは自身が置かれた環境に適応するように
進化する人間の性質から言及できるもので、

人間は日本語圏に置かれれば知らないうちに
日本語を話すようになり、

高地などの酸素が薄い環境に置かれれば
空気が薄くても生活できるよう
体質が自然と変化していくのが人間です。


これは一般的な「学習」とは感覚が違うかも
しれませんが、これも学習の1つなんですね。


考えてみれば当然だと思います。

その人は実際に成長し、変化しているわけですから。

教師か環境かという学び先の違いしかそこにはありません。


ですから、もし「教わる」という学びしか
頭にないのであれば、それは狭量としか言えない、
という話になってくるわけです。


環境からの学びは教わることによる学びよりも大きい。


そのことを示す1つの証拠として環境は


「その環境にあうよう脳や体を物理的に変化させる」


ことがあります。


例えばタクシーの運転手はその経験を経るごとに
経路を覚える際に使う「脳の特定の部分」が
異常に発達します。

日常的に走ることを行っているケニアの人などは
骨盤の形が物理的に変わってきます。

地面の踏み方も私たちみたいなベタ足じゃなく、
外側から円を描くようにして着地し、
そして地面を蹴っていくそうです。


できるようになるどころか、物理的に形が変わる。

それに特化した形に「変容」する。

こういった可能性を秘めたのが環境からの学びです。


この辺はネットワークセミナーに出ている方は
第3回で出てきた「オートポイエーシス」を
思い出してもらえればなんとなくわかると思います。

※もしわかんない人は『知恵の樹』という
 本を読んでみるといいと思います。

 ただしめちゃくちゃ難しい本です・・・。
 

で、そんな環境からの学習が1番大きいと
仮定した時に、勉強できる子とできない子の違いは
どう説明できるのかについて考えてみたいと思います。


これに関して、第1回の記事を書いたときに
こんなメールを送ってきてくれた人がいました。



==========================================


(前略)

僕は兼ねてより、勉強が好きな人は生まれつきできるから
好きでその才能を伸ばして行くし、

同じようにスポーツが好きな人は生まれつきできるから
より好きになりその才能を伸ばしていくのだと語ってきました。

今回の記事はどこか僕の考え方に通じてるようにおもいます。



=============================================



ありがとうございました。


「生まれつきの才能」ですね。


勉強やスポーツを考えた際に、
ある種の特別な才能、気質みたいなものを
人間は持って生まれてくる。

そういった「優生学」的な視点から
メールを送ってきてくれました。

そしてその視点から、そういった才能は
ほとんど変えられないんだから
自分の長所を伸ばしていく方が大切である。

というようなことを言ってくれています。


あなたはこれに関してどう考えたでしょうか。


ちなみにですが、私はこの意見に対しては
半分賛成で半分反対です。


どこに反対かっていうと、

「生まれつきの才能がある」

という点です。


これに関しては私はむしろ真逆で、
「生来の才能は存在しない」という立場を
とることにしています(詳しくは後述)。


ただし。


ここが半分賛成のポイントでもあるんですが、
ある程度の年齢に達してしまうと手遅れになる、
という考えは持っています。

例えば小学校に入る頃には勉強の向き不向きは
ある程度「完成」しています。

何をやろうがどれだけ頑張ろうがダメ、
それこそ「できない子」のレッテルを貼られる
土台ができてしまっているのです。


で、そういう状態に完成してしまうと、
誰かから教えてもらうような教育(=学校)で
現状が改善することはない。


そういう意味で、ある程度の時期に達した人は、
勉強に固執しないで別の長所を伸ばすべき、
という視点には首を大きく縦に振ります。


そういう意味で、半分賛成なのです。


生来の才能はないけれど、完成したら手遅れ。


これが私の立場です。


で、今回は特に一般的に言われている
「生まれつきの才能」らしきものを通して
勉強できるできないを考察したいと思います。


前置きが長いですが、よろしいでしょうか?


・・・大丈夫ですね?


では、まずこのスライドを見てください。


1流の研究からわかったこと
• 「特別な才能は発見できない」
• 才能の代わりに際立っていたのは
1. 対象に打ち込んだ総時間
2. 「一人で」打ち込んだ時間
• この2つだけだった



これは1.5流のつくり方セミナーの
1番最初に出されたスライドです。

このセミナー、そしてその元になっている本、
脳科学等の学問によると、生来の才能的なものは
科学的に否定されてきています。

遺伝子だとか生まれつきの才能みたいなものは、
統計に出るような有意差はない。


つまるところ、


科学的証拠はまったくない


ことが認められるようになってきました。


ですから勉強にしてみてもスポーツにしてみても
生まれた段階で決まってるみたいなことは
逆立ちしても言えなくなっているのが現状です。


そもそもとしてこういった生まれつきの才能云々は
学問的にいうと「優生学」の発想になります。

人は遺伝子によって性格、行動パターン、気質などの
情報が決まっており、それが発達において
非常に大きな影響を及ぼす、みたいな発想ですね。

有名な発想でいうと人間の人生は遺伝子で
6割がた決まってしまう、というもの。


これは一昔前に一世を風靡した発想で、
今や「常識」として社会に浸透しています。

ですから私たちの深層心理には
この優生学的発想が組み込まれています。


それはどういう発想かというと、


「才能がない人は何やっても無駄


という残念な思想です。


あるいは、すごい人を見たときに


「ああ、あの人はモノが違うからな」


という発想をするのもそうです。


木坂さんすげえ的な。


ただ、そんなことは今のパラダイムで言えば
荒唐無稽なものになってきていて。

もっと酷なことを言えば、
自分の頑張りが足りないことを隠すために
遺伝子や才能を利用しているに過ぎない。


要はただの


「言い訳」


になってきているのです。


実際、向き不向きはあったとしても
誰だってやればある程度はできます。

木坂さんがラジオで言っていた
「オリンピックレベルなら誰でもなれる」
って話もここから来ていますし、

優生学が正しいにしろ間違っているにしろ、
それを言い訳に使うような大衆の発想では
話にならないのは言うまでもないですよね。


しかも少なくとも現状では、生まれつきの才能が
存在しないことが証明されている以上、
そんな発想からは早く脱却することが求められるわけで。


だからこそ、木坂セミナーでは


1流の研究からわかったこと
• 「特別な才能は発見できない」
• 才能の代わりに際立っていたのは
1. 対象に打ち込んだ総時間
2. 「一人で」打ち込んだ時間
• この2つだけだった



というスライドが紹介されたわけです。


才能ではなく、時間であると。

どれだけがんばったかであると。

才能を隠れ蓑にして自分を正当化するんじゃねえと。


そういうわけなんですね。


(まあ正確には遺伝子が無関係というわけではないんですが、
 ここに占める遺伝子割合は非常に小さいので
 ここでは時間(=環境)と言ってしまっても問題ない、
 という考えも一応補足しておきます)


で、話を戻すわけですが。


じゃあできる子とできない子はどこで分かれるのか。


そして、できない子はできるようになるのか。


また、そこからビジネスを「できる」ようにするには
どのように考えていけばいいのか。


これについて考えてみたい・・・


と思ったんですが。


長くなりすぎたので次回に続きます苦笑。


それではまた。

ありがとうございました!


Related post