差別といじめと戦争と


こんにちは、Kです。

久々の記事になりますね。

今日は西洋思想史のマスタークラスをテーマに
話してみたいと思います。


年内の記事はこれが最後になるかな?


お年玉やクリスマス的なものは
需要があればなんか考えますが、
最近忙しいので何とも言えませぬ。

木坂サンタは最近良い子のところにも
来てくれませんので、もしほしい方は
リクエストしてくださいね。

多数来ればちょっと頑張ってみようかなと
思ってます。


(最近メールいただいてもなかなか返せてません
 ごめんなさい!)


さて。


記事に入る前に、ざっくりと西洋思想史セミナーの
概要をお話しておきます。


まずこのセミナーですが、
開始したのが約2年前になります。

もうそんなに経ったのかーという感じですが、
募集時には歴史地政学とセットで、
計100万円で募集されています。

高いですね。


んで、ちょくちょくビデオが届かなかったり
スライドがなかったりということが続きつつも、
つい先日ようやく全10回が終了しました。

(ちなみにビデオは第7回以降届いてないですが、
ビデオ自体はアップされてるので、
URL知ってる人はDLすれば見れますよ)

まあオマケ的に第11回が開催されたようですが、
その辺はまた追々記事にします。


はい。


で、このセミナーなんですけど、
西洋の思想を追っかけていく・・・

つまり世の中を動かしてきた思想や哲学、
概念などを学んでいくセミナーなのですが、

最後の3回はずーっと同じテーマで
進んでいくことになりました。


そのテーマは


「差別」


です。


まあこれは区別でもいいし、
排除でもいいし、いじめでも村八分でも
戦争でも何でも構わないのですが、

私たちが生きていく上で必ず遭遇する
人が人を攻撃したり排除したりしようとする
現象はなぜ起こるのか。

こういったことについて考えるセミナーに
なっていました。


・・・見ての通りすごい重いテーマです。


皆さんはどう思いますか?


差別やいじめ、戦争などはなぜ起こると思いますか?

それらをなくすことができると思いますか?

なくせるとするならどうすればなくなると思いますか?

なくせないのならばその上でどうすればいいと思いますか?


・・・


当然、すぐ結論を出せるものではないと思います。


ただまあ今回の記事はこんなテーマで進みますので、
年末年始の空いた時間に考えるキッカケに
してみてください。

これらの問題に対して自分なりの回答を持っておくことは、
きっといつか役に立つと想いますので。


では、参りましょう。



【いじめのロジック】


いじめと言えば学校です。

学校でなくてもいじめは起こりますし、
特に臨床心理士系のいじめは陰湿、
相手の嫌がることを徹底してやるそうですが、

有名なので今回は学校のいじめに
フォーカスしたいと思います。


まず定義から。


いじめというのは簡単に言うと
集団が1人あるいは少数を攻撃、弾圧、
恐喝、脅迫、無視等することを指します。

まあこの辺の定義は学校現場では
明確にされていて、

「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」


という感じになっています。


以前は「一方的」とか「深刻な」とか
もう少し具体的な定義がされていたんですが、

これじゃまずいってことで
もっと大雑把な定義に変更された、
という経緯があります。


そんな強引な定義のせいか、
あるいはいじめの研究結果のせいか、
学校現場のコンセンサスとしては

「いじめはなくならない」

という暗黙の前提があります。


どれだけいじめを排除しようとしても、
いじめの悲惨さを伝えたとしても、
どうしてもいじめは起こる。

「僕たちはいじめをしません!」
「いじめをするやつなんて酷いやつだ!」

そう子どもが高らかに宣言しようとも、
そういう子どもがいじめをしていたりする。


いじめをしている本人が
それをいじめだと認識していないケースも
けっこうあります。


なんにせよ、叩けど叩けどモグラのように
沸いてくるのがいじめ。

ですから半ば諦めをもって
「なくならないと思って臨め」
という了解ができているわけです。


とはいえ、もちろんこれには

・うちのクラスではいじめは起こらないと思うな
・被害を最小限に抑えるつもりで行動しろ
・本当になくなるまで頑張れ

という重要な考え方も含まれているわけですけどね。


いずれにせよ、今の学校はこのようなロジックを
元に動いているわけです。


これがいじめの定義です。


さて、では問いを投げてみましょう。


この原因はなんでしょうか?


・・・


・・・・・・


このいじめという現象に関しては、
昔からいろんな分析がされています。


一時期は、いじめる側の分析が主流でした。

いじめる側を一方的に悪と断罪しました。

いじめる子の家庭環境などが注目されました。


しばらく経つと、いじめられる側が注目されました。

いじめられる側にも問題があるんじゃないか?

そういったいじめられやすい子の行為や
性格、誘発行動などが研究されました。


さらに経つと、傍観者という概念が登場します。

傍観者の存在がいじめを加速させる。

傍観者もいじめの加害者だと認識させることが重要だ、
という論調が一気に広まりました。


そして今。


いじめは「構造的なもの」として捉えられています。


つまるところ、子ども(正確には人間)が
一定数集まってしまえばいじめが発生する
「構造」ができる、というわけです。

だからこそいじめはなくならないのだし、
学校という構造がある限り
いじめとは永遠に付き合わなければならない。

そういう考え方が今の主流です。


・・・どう思います?


いじめはなくなると思いますか?


今の学校現場の常識に反論できるでしょうか。


反論できないとするなら、
学校がある限りいじめは起こり続けるの
でしょうか?


・・・


そんな問題提起をしたところで、
今日はこの辺で(唐突)。


いや、この後めっちゃ長いんですよ・・・苦笑


続きの記事は明日にはアップしますので、
それまでにご自身の意見を
まとめておいてください。


これ、いじめに絞って話していますけど、
差別や戦争とかでも一緒です。

今戦争が起こる原因は「構造」に
求められていることが多いですからね。


例えばイスラエルとパレスチナは、
同じ聖地を共有しているという
構造を持っています。

そしてそれを長年に渡って争い、
血を血で洗ってきた構造があります。

誰が悪いのでもなく、
そういう構造に置かれてしまった以上
戦争は続く、と考えられています。


これはテロも然り、日米の構造も然り、
反日を掲げる国家群然りです。

だからこそ今の政治の考え方は
地理関係や歴史によって作られてきた
構造に着目しています。


日本にも部落と呼ばれる
そこに住んでいるだけで差別される、
という構造がありますよね。


そういう意味で、戦争もいじめも
ある意味では根っこは同じ・・・
と、言えるかも?しれません。


もう一度疑問点を整理しておきます。


・差別やいじめ、戦争などはなぜ起こると思いますか?
・それらをなくすことができると思いますか?
・なくせるとするならどうすればなくなると思いますか?
・なくせないのならばその上でどうすればいいと思いますか?


これらに対してあなたはどう思いますか?


良ければ意見なり感想なりを送っください。


最近返事を返せてなかったのですが、
これに関しては時間を作って
お返事させていただこうと思います。


それでは今日はこの辺で。

ありがとうございました!



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