存在に感謝したら宗教になってしまった


こんにちは、Kです。

今回もスカイプ議論から学んだことを書きたいと思います。

今日は「存在」についてです。


なお、議論企画についての詳細はこちら

メンバーについてはこちら

議論の際に読んだ本はこちらでございます。


今回は木坂セミナーでは割と頻繁に
「存在」はそれそのものに価値があるという話が
されていますが、それにも関係する話になりますね。

「重要なことは・・・このうえない真剣さで、この世界の瞬間をとらえ、それを言葉にすることです。そうすれば最後には、無の中の底なき深みに、在ることの豊饒さが隠されているという、決定的な経験が目覚めます。」(ハイデガー)



これはリーディング基礎講座の中で取り上げられていた
ハイデガーの手紙の一節ですが、これの結論も
今回の話の結論と似た感じになっています。

かなり絶望するレベルのリーディングが必要ですが、
もし良ければやってみてください。

さすがに音声解答は載せられませんが、
結論としてはこの記事と同じなので。


さてさて、それでは前置きはこの辺で。

本題に入っていきましょう。



【存在教に入信したようです】


今回私がメンバーさんと議論させて得た気づきの1つに、

「存在はそれだけで価値があるんだな」

というものがあります。


この議論企画にはけっこう多くの方が参加してくれ、
かなり有意義な議論ができたと私は思っているわけですが、
しかしその中にもいろんな人がいました。

臆せずどんどん書き込んでくれる人、
ドキドキしながら手探りで自分の思いの丈を綴ってくれた人、
参加はしたけど一言も話さなかった人。

本当にいろんな人がいましたが、そういった議論を通して

「話さない人も含めて有り難い」

となんとなく感じたんです。


まあこの時はなんとなく感じただけだったので
特になぜそう思ったのかその理由を考えたりは
しなかったのですが、

つい先日、知人(木坂さんのことは知らない人)と
話す機会があったので、この気づきを話したところ、
衝撃の発言が返ってきました



「入信したの?」



・・・


一瞬


( ゚д゚)ポカーン


としましたが、後で考えていったら、
思ったよりもいろんな気づきがありました。


ちなみにですが、
なぜこの「存在には価値がある」発言が
入信に繋がったのかわかりますか?


その発言にふわふわというかスピリチュアル的な
雰囲気を感じたから彼はそう言ったんだと思います。

何がふわふわで、何が問題だったのか。

ちょっと考えてみてほしいと思います。


・・・


考えました?


このことを考えていくにあたっては、
やはり「価値とは何か」という部分を考えて
いかなければならないなと思います。

そうじゃないとどことなくふわふわして、
宗教に入信したと言われかねません。

(↑ 相当気にしている)


というのも、一般的な「価値」は
今回のアドラー心理学で話されている「価値」とは
そもそも言葉の定義が違ったのです。


恐らく一般的な価値の感覚は、

価値がある = 何か良いことがある、得。
価値がない = 悪いことが起こる、無意味。


こういう感じの印象になると思います。

プラスマイナスで言えば、プラス。

たぶんビジネスの方向で言う価値も
こっち方面のニュアンスが濃いと思います。


価値 = その人にとって良いもの


だから売れる。


これが一般的な感覚だと思います。


・・・ですよね?


そしてその定義を踏まえれば、
「存在するだけで価値がある」
という話はこういう解釈になります。


「この世に悪いものなんて何もなくて、
すべてに意味があって、生まれただけでも
それはすごいことなんだよ!」



みたいな話の1歩手前。


何せ「存在=善」みたいなニュアンスですからね。

そこにいるだけで良いことが起こる、
生まれただけで素晴らしく、
ここにいてくれてありがとう的な。

そりゃあそんな話をしてると思われたら
入信したと思われても仕方ないですよね・・・。


ここまで前提が違っていたらもうどうしようもない。


言葉に気をつけろと言っておきながらこの体たらく、猛省です。


じゃあ価値ってのは何なのか、
何をもってしてそれに価値があると判断するのか、
これに関して私はですが、


「影響を与えることができること」


だと考えていたんです。


なぜこれを「価値」とみなすかはこれから説明しますが、
その前に確認してほしいことは、

存在は物事に対して何らかの影響を与えますよね?

ということです。 


例えばですが、
石がそこにあれば風の流れを作りますし、
道ばたにあれば人がつまづいて転びます。

転ばないように注意していたら
自然と転ばない歩き方が身に付きますし、
足下に注意を払う習慣ができるかもしれません。


石、空気、人などは、そこに存在するだけで、
(物理的精神的問わず)別の何かに
影響を与えているわけですね。


その影響そのものを価値と私は考えているんです。


ちなみにですが、ここでの「影響」には良い悪いは
一切含まれていない、という点に注意しておいてください。

ただ単に、影響を与えられるなら有価値、
与えられないなら無価値です。

そしてそう考えたとき、本当に無価値なものは
ごく僅かしかなくて、人間に限って言えば
もし本当に価値のない人がいるとしたら、


人はいつ死ぬと思う?

心臓を銃で撃ち抜かれた時・・・違う

不治の病に犯された時・・・違う

猛毒キノコのスープを飲んだ時・・・違う

人に忘れられた時さ・・・!!(ワンピース)



まさにこの発言のままになるんだろうなと思います。


死んだ人だって、この世にいない人だって、
誰かがそれを覚えている限り、
その人とその周囲に影響を与えています。

社会から隔絶され、生きる価値もないと感じて、
「俺は無敵の人だ」とか思い込んでいたとしても
その人がいることでほかの人は影響を受けます。

実際例の彼はその存在と行動によって
社会に絶大な影響を与えました。

その彼が影響を受けた似た境遇の人も多くいるようです。

もし同じ境遇の人が1人もいなかったとしたら、
たぶん彼はあの行動はしなかったと、
これは推測ですけど、でもそう思うんですね。


つまり、価値のない人というのは

そもそも存在していないか、誰にも認識されていない人

ということになります。


・・・言葉にするとクサいなー。


話を戻しますが、結局どういうことかと言うと、


「一般的な価値感情 = 本質的な価値 + 主観」


ってことです。


まあこれが本当に本質かどうかは知りませんが、
少なくとも私はそう思っているということで。

木坂セミナーの用語を使うなら、

「アフォーダンス」

って言葉が近いと思います。

存在はそこに存在するだけで我々にアフォードしてくる、
という文脈で使われていたあのアフォーダンスです。

学問的には現象学だったかな?


まあその辺は難しいのでともかくとして、
価値ってのは影響を与えることで、
私たちはその影響を主観で解釈することによって
一般的な意味での価値感情を作っているということです。


つまるとこ、何か影響を受けました、
それを主観というフィルターを通しました、
で、それをプラスマイナスで判断しました。

こういう認識プロセスを通しているってことです。

この辺の話は

「物事に善悪はなく、中立である」

という木坂セミナーの話にも通じますね。


これは原澤さんがよく使う例ですが、

「東日本大震災で人が大量に死んだことを悪いと
 判断するのは日本人だけで、地球の観点から見たら
 むしろ良いことかもしれない」

ということです。

赤鼻のトナカイ理論。

その人の主観で判断しているに過ぎないんですね。


このことを踏まえると、価値とは結局何なのかと言えば、


・判断材料を与えてくれるもの


という解釈が1番適当なような気がします。


犯罪が起きました、恋人に振られました、
人がたくさん死にました、仕事が成功しました、
目の前に知らない人がいます、

何においても、その物事に影響を受けた瞬間に
それを判断をする機会があります。

見知らぬ人にしても、美人とかブサイクとか、
無視するかナンパするかガン見するかなど、
意識無意識問わず私たちは瞬間瞬間判断しています。

その機会、そしてその判断の材料を与えてくれるもの、
別の言い方をすれば判断を誘発するもの、
それが「価値」と言えるものなのかもしれません。

何せそこにその人がいなかったら
判断することすらないわけですからね。


ふむふむ、ああ、なるほど。


そう考えたとき、こんなことも言えそうです。


存在は私たちに判断する機会を与えてくれるとするなら、
それは確かに「その存在」にしか無理かもしれない、と。


犯罪者が存在すれば、犯罪者に対して判断する機会を
与えてくれるし、植物人間がいれば植物人間について
判断する機会を与えてくれる。

それはその犯罪を起こしたその犯罪者や
その植物人間じゃないと実質的に不可能ですからね。

別の人だったら別の気づきになってしまいます。


今回のメンバーさんとの議論にしてみても、
話す人、話さない人、そもそも参加していない人など、
いろんな人がいてくれたからこそ、

「この人話さないなー、何か引っかかってるのかな?」
とか「企画がおもしろくなかったのかなー?」とか、
いろいろと思いを巡らすことができたわけですから。

話さない人がいたからこそ得られたことって
思ったよりもいっぱいあるんですね。


簡単にまとめに入りますが。


その人がそこにいれば、何かすれば影響があるし、
何もしなくても影響がある。

その人がそこにいなくても、いないことで影響を受けるし、
影響を受けないことで結果的に影響を受けることもある。

初めから存在しない場合を除き、私たちは常に影響を受け、
そして判断をする機会を与え続けてもらっているのかも
しれません。


そのように考えていったときに、
存在そのものが「有り難い」という感覚が
少しだけ腑に落ちた気がしました。


価値を受け取り、どう判断するのは自分次第。

その判断によって悲しんだりムカついたりすることは
あるかもしれないですが、

でもその価値を与えてくれるのはその存在しかいなくて、
その存在がいなかったら私たちはそもそも判断する機会すら
与えてもらえないかもしれないんです。


そう考えれば、「ありがとう」とは言えないですが、
「有り難い」とは言えそうな気がします。


・・・さてさて。

かなり抽象的なお話になってしまいましたが、
私としては限界なのでこんなもんで。

あとは各自で具体化しつつ、
自分なりに存在とその価値について
考えてみてくださいませ。

この記事を通して得られたあなたの気づきを
お聞かせいただければ、
とても嬉しゅうございまする。


それでは、今日はこの辺で。

ありがとうございました!





P.S.

昨日たまたまテレビを見ていたら、
宇宙飛行士の毛利衛さんが出ていました。

そこで出てきた発言(うろ覚えですが)

「火星に行くことで地球がわかるんですよ」

に個人的にはハッとさせられました。


私たちは比較しなければ物事を理解できない。

わかってはいたんですけど、この世にはまだ
比較すらできないものがいっぱいあるんだなと。

そしてそういうものに対して自分がいかに

「わかった気でいるか」

こういうことに気づいたような気がします。


些細な気づきのアウトプットでした。

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