K、スピリチュアルを語る


こんにちは、Kです。

昨日今日は比較的涼しいですね。

冷夏は冷夏で困りますが、
これくらいならいろいろな意味で
快適でいいですねー。


さて、今日の記事は、先日の記事に関して
メンバーさんとメールでやりとりしましたので、
それを用いて記事を書きたいと思います。

存在に感謝したら宗教になってしまった

この記事ですね。


かなり書き殴りな記事だったので
どうかなーと思ってたんですが、
意外と感想メールをいただくことができました。

反応を頂けて嬉しい限り。

ありがとうございます。

メールには1つ1つ返信させていただいたのですが、
どうせならシェアしちゃおうということで、
少しスペースをお借りしたいと思いまする。


ではではまいりましょう。



まずはNさんから。


判断を誘発するもの=価値

という一言はかなりの学びになりました。ありがとうございます。

僕は

認識の仕方=価値

価値を判断される側という立ち位置を持てたことがうれしかったですね。
という価値を判断する側の立ち位置しか頭に浮かばなかったので

それと同時に新たな疑問がでてきました。

「判断を誘発するから存在が認識されるのか
 存在を認識したから判断が誘発されるのか」

うーんっていろいろ悩んだんですけど
不確定性原理みたいなもんかな?と思って途中で考えるのを
やめてしまいました。そもそも僕の仮説が誤りかもしれないですしね。


そんな感じでモヤモヤして考えてた時、
一般的に人は五感で存在を感知している前提があって、
五感で感知できないものは存在していないものだと見なしている。
(でも感知できていないだけで本当は存在しているかもしれない。)

存在という概念にはこういった五感で感知できない何かも含まれると
思うんですね。そしてそれを有り難いと言ったら・・・。

「入信したの?」

ってなっちゃうかなぁ~と思いました。

五感以上の話はふわふわ系の話ですしねぇ〜。僕は好きですけど
原澤コミュにも参加してますし。



Nさん、ありがとうございました。


返信には書いたのですが、
五感の外の話は難しいですよねー。

これは五感の外というか
スピリチュアル関係全般そうなんですけど、

天使にしろ神にしろ、宇宙の法則にしろ、
そもそもそれが本当に実在しているかどうかを
証明することは誰にもできないんですよね。

いるという証明もできないし、
いないという証明もすることができない。

あるともないとも言えないものです。


そんな証明できないものを語ろうとすると、
結局水掛け論になってしまうわけで、
原発議論みたいな感じになってしまいがちです。


というのも、スピにしても原発にしても、
それついて語ると違う立場の相手を意固地に
させてしまう可能性があるからです。

どの立場を取るにしてもどっちもどっちで、
しかも証明できないですからね。

お互いがお互いの立場を譲らない、
別の言い方をすればまったく移動の起こらない
議論になってしまうんです。


そういう意味で五感の外の話は本当に難しくて。


もしそうならないように話そうとしたら、
それこそ個人的には、


神が存在するかしないかは、確率から言えば二分の一。
神が存在しないとすると、その利益は0。存在すれば、その利益は∞。
その時の期待値は、存在する方は、0.5×∞=∞、
存在しない方は、0.5×0=0となり、
したがって私は、存在する方に賭ける。(パスカル)



こういったどこまで信じてどこまで信じないのか、
どこまで受け入れてどこからを受け入れないのか
という範囲でしか語れなくなってしまう気がするんです。


つまるところ、個人的には


スピは個人の裁量で判断するのが1番良い


と思っているということです。


・・・ちょっと語っていいですか?笑


スピについて。


そして神の存在について。


実はこういう実在について考えだすと、他のもの、
例えば宇宙とか他者とか目の前のパソコンとかが
本当に存在するのかどうかも怪しくなってきます。

私たちはフィルターを通してしか物事を見れないのなら、
「目の前にあるそれ」が自分が作り出した虚像に過ぎない
可能性は常にあるわけで、

見方によって見え方が変わってしまうものが
本当に存在しているかなんてことを疑いだすと、
まさにデカルト方面に行っちゃうというか。

「すべてが疑わしい」

ってなってしまうんです。


夢とか幻覚とかだってそうですよね。

他者から見れば妄想ですけど、
本人にとっては紛れもない現実ですからね。

目の前にあるものが幻である可能性は
決して0にはならないんです。


このように考えていくと、
なぜ目に見えるものだけの存在を認め、
そうじゃないものは認めないのか、

なぜウイルスとか空気などは認めるのに
妖精とかオーラは信じないのか、

こういったものの境界って実は
相当曖昧であることに気づくんですね。


「そんな曖昧なものを『在る』と感じられることこそが奇跡だよね」


みたいな話を前回取り上げたハイデガーの文では
訴えているわけですが、

何にせよハイデガーやそれを読む木坂さんをして
奇跡と言わしめるくらいには存在に根拠はなく、
その実は怪しいものだってことです。


何が言いたかったか。

存在について語るのは不毛じゃね?

ってことです。


先日は存在が有り難いとか書いちゃったので、
話が根底からひっくり返っているような
気もしなくはありませんが、でも今はそう思います。

そのように意見を変えることができたのは
まさにこのメールのNさんのおかげなんですけどね。

ああ、存在が有り難いんじゃないんだ

って気づきました。


というのも、私は返事の中でこんなことを書いたからです。


>そう考えると、私は「存在」ではなく
>「価値」に対して有り難いと思っているのかも
>しれませんね。



存在ではなく、価値。


これは個人的にはかなり大きな視点の変化です。


というのも、本当に存在するのかってのは
考えれば考えるほどドツボにはまっていきますけど、
価値ってのはかなり明確なものだからです。


例えばですが、天使について考えるとしましょう。

天使が実在するかどうか、これはわかりません。

人の話を聞けば見た人もいるって話ですし、
原澤さんもたまにそういう話をしますけど、
少なくとも私は見たことないし、感じたこともない。

ミセスM御大の主張する「原始の力」を高めれば
それを感じることができるのかもしれませんが、
しかしながら、それも妄想と言われればそれまでです。


しかしながら。


「価値」はありますよね?


ここなんです。


私は前回の記事で

「価値とは判断を誘発するもの」

という定義をしました。


この定義に則って考えれば、
私たちは天使というものについて判断し、
そして影響を受けています。

「天使なんているわけないじゃん、アホなの?」

と主張するにしてみても、
その人の判断は確かに誘発されているわけで、
価値はあったことだけは間違いはない。

その価値を自分のフィルターに通した結果、
天使を否定するという方向に行っただけ、
ということが言えてしまうんですね。


そのように考えたとき、

スピに限らずあらゆるものの存在は疑わしいが、価値は確実にある

このような解釈に私は至ることができたんです。


これはNさんに書いた返信メールの一部ですが、


>
>実在とか感知云々よりも、
>
>「そこにある価値に対してどう向き合うか」
>
>が個人的には大事なのかなと思います。
>
>
>否定しようが肯定しようが影響されてるのは
>間違いないんですから、実際にいるいないの話は
>私にとってはどっちでもよくて。
>
>でも、そういったものに価値があるのは事実なんだから
>その価値に対して思いを馳せる意味はあると思うし、
>どうせなら人生が楽しくなる立場を取ったらいいんじゃない?
>
>と、私は考えます。
>



要するに、


「実際に在るかどうかじゃなく、価値があることを認め、
 その価値が自分にとってどう影響を及ぼすかを考え、
 良い方を取ったらいいんじゃない?」


ってことです。


簡単に言えば、

人生が楽しくなりそうなら受け入れればいいんじゃね?

ってことです。


どうせ本当に在るかなんてわかんないんですし、
考えることに意味はあるのかもしれませんが、
それを相手に押し付けたってしょうがないですからね。

自分はどこまで信じてどこまで信じないか、
それを実在云々ではなく、価値としてどうか、
という視点で判断し決めていく。

こうやっていけば、少なくともスピについて
程よい距離感を取っていけるのではと思うので、
個人的にはそうやっていこうかなと。


それがNさんとのやりとりで得たものであり、
ブログでシェアしたかった気づきです。


こうやって考えていくと、私の

「神とかは信じないけど大きな流れみたいなのは信じる」

という微妙な立場が説明しやすくなりそうですからね。


信じた方が楽しそうだから、って笑


それでは、今日はこの辺で。

ありがとうございました!





P.S.

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