生死観について


こんにちは、Kです。

暑くなってきました。

暑いのはダメです。溶ける。


さて、今日は
もう生きられないと思ったら云々
の記事について書きたいと思います。

まあ別にどうなったら死にたくなるか
なんて興味ねーよって人は
飛ばしてもらってOKです。

客観的な定義なんてできるわけもない、
至って個人的な話です。


そんでは参りましょう。



【もう生きられないという状況】



せっかくなんでいただいたメールを
紹介したいと思います。

2人送ってくれました。

感謝感謝。





>「もう生きられない、と心から思ったら死ぬしかないのか」
>あなたにとってそう思う状況とはどんな状況ですか?

とのことですが、瞬間的に思ったのが、

「津波に巻き込まれる3秒前の状況」

でした。
多分、質問の意図と違いますね・・・。

日常生活の中で「もう生きられない、と心から思ったら死ぬしかないのか」と
自分だったら考えるかというワークの認識であっていますよね?


僕だったらどういう風に考えるかというと


「もう生きられない」と思っている自分がいるな〜


と客観的に自分を見てそうです。
「もう生きられない、死ぬしかない」と思う人って自分にべったりなんですよね。
もっと離れないと!!エゴが強すぎるんですね。

だから、自分のエゴを満たすために死を選択するのであればお好きにどうぞと
いう感じでしょうか。僕自身が選択したのならそれを受け入れます。

ただ今の僕の場合は、「もう生きられないと思っている自分がいるよウケる〜(笑)」と
客観的に見る可能性が高いので死ぬという選択肢は選ばないかな。
ドラマを見ていて役者に感情移入したとしても、
現実の中で自分がアクションを起こさないのと一緒ですね。


一応、ワークの回答は以上です。

記事にデカルトが出ていたので思い出しましたけど
「我思う、ゆえに我あり」という文書の、我思うの「我」と我ありの「我」は別の
自分を指していると何かの本で書かれていました。

考えている自分を客観的に見ている自分。まさにワークの僕の回答と
一致していてニヤリとしました。






2人目。





「もう生きられない、と心から思ったら死ぬしかないのか」

この言葉を聞いて、自分の人生を振り返った結果 
1回だけ、もう生きられないと(当時の自分は)心から思ったことがありました

小学校3年か4年の時、ウンコをしてるところと友達に発見されたときです。
当時は学校でウンコをしているところを見つけられると
一日中ウンコマンと呼ばれからかわれます。

休み時間にウンコしているところを発見された僕は、
教室に戻るのが怖くて、10分ぐらいどうやって死のうか考えていました。

結局教室に戻るわけですが、あの10分間はもう生きられないと心から思っていました。







しょーもない話はこのへんにして


今の自分にとってもう生きられないと思う状況を考えてみたのですが、
うーん イメージできない・・・
両親や兄弟が死んだとしてももう生きられないとは思わなさそうだし・・・


色々考えた結果、地球上の自分以外の人が全員死ぬ+自分が不老不死になる
この状況だったら何年か何十年かしたらもう生きられないって心の底から思いそうです

その状況になったら死ぬしかないのかなと






ありがとうございました!


これに関しては、特にコメントはないです。


言葉の定義を分析するのは
議論の訓練としてはいいかもしれませんけど
現象学的にはそんなに重要ではないですからね。


まあでもこの人たちは死ななそうですね笑

もちろん良い意味で。




んで、大事なのはこれを読んで自分はどう思うか、
自分の生死観と比べてどうか、
ってことだと思います。


ちなみにこの

「もう生きられないという状況」

というものに関しては私はけっこう
「夜と霧」を書いたフランクルの考え方が
気に入っています。


フランクルはユダヤ人として
強制収容所に放り込まれて
そこで九死に一生を得たわけですが、

彼は収容所の極限状態の中で

・自ら死を選ぶ人と
・耐えて生き残った人

こういう人たちの違いについて
このように分析しています。


「絶望の余り自殺を決心した2人の囚人と語ったところ、次のような共通点が明らかになった。すなわち2人共「もはや人生から何ものも期待できない」という感情に支配されていたのであった。(中略)(さっきとは別の)2人の囚人から期待すべき事の彼岸に・・・人生はそれぞれ彼らをまったく具体的使命を持って待っていたことが明らかになった。(中略)したがって1つの業績が1人を待ち、1人の人間が他の1人を待っていたのである(死と愛)」



要するに何を言ってるかっていうと


「誰か(あるいは何か)から必要とされている人は死なない」


ってことです。


あるいは、


「必要とされることを知っている人は死なない」


と言い換えてもいいかもしれません。


詳しい分析とかはしませんし
これが正解ってわけでもないんですけど、
私はこの考え方が好きです。

だからもし私にとってのそういう人
に対しては全力で応えたいと思うし、

もし死にたい状況にいる人がいれば、
そういう声のかけ方をすると思います。


逆に言えば私にとっての
本当に生きられない状況というのは

「必要とされない」

って状況なんですけど、
まあそれはたぶんないと思うので
死ぬことはないと思います笑


仮にこの木坂ブログが要らなくなっても、
たぶん何かして遊びますしね。


一般の方から見れば気持ち悪いであろう
こういうマニアックなブログですら
いろんな方と楽しめるわけですから、

何やっても楽しめるっしょー
くらいに思っています。


楽しいと思うことをやって、
それで他の人も楽しめればよし。

他の人が楽しめないのであれば、
迷惑の掛からない範囲で自分が飽きるまでやって
また新しいことをします。


皆さんはどういうふうに考えますか?


こういうのを語るのは成功哲学みたいになるので
あんまりやるべきではないんですが、

ご自身の中にそういう考えがあることは
けっこう重要ではないかと思います。

ヒマなときにでも考えてみてください。


そんではまた。

ありがとうございました!

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