こんにちは、Kです。
若干風邪です。
ぬかったわ。
今日は前回の記事の続編です。
本当はワークのつもりだったんですが、
思った以上に記事に対する反応と
それによる学びがありましたので少しばかり。
ワークは私の体調が治るまで
いましばらくお待ちくださいませ。
そんでは前置きはおいといて参りましょう。
前回の記事はこちら
今回はいろんな方からメールを頂いたので
一部抜粋でご容赦を。
【インテグラル再び】
さてさて。
前回インテグラルってのは統合で、
元々分かれていなかったはずの心と体などを
1つに戻していく試みなんだよ、
という話をしました。
これは前回の引用になりますが、
「integralってのは統合されたとか完成されたという意味なんです。元を辿っていくと、触れられていないという意味です。(中略)何かが触れることによってあるべき姿からちょっとずつ形が変わっていくわけです。何かが欠けていったり余計なものがつけられたりして変わっていく。integralとかintegrityってのはそれらを全部取り去って正常な形に戻すという意味があるんです」
この言葉のまんまですね。
詳しくは前回の記事を読んでほしいのですが、
この統合はただくっつけるんじゃなくて、
分かれて失われた上に独自の進化を遂げたものを
つなげていかないといけないんです。
これはもうあれです。
元は同じだった、サルとアメーバ。
これ元に戻してください、みたいなもんです。
心と体にしてみても、その両者は分かれて久しく、
それぞれが大きく乖離してしまいました。
学問にしてみても、細かくなりすぎて
誰も全体像を把握できていません。
国にしてみても、イスラエルとパレスチナのように、
もはや形が合わなさすぎるところも数多くあります。
それをつないで1つにしろ。
統合とはこういう取り組みと私は考えています。
(あくまで比喩ですが)
でもま、それが必要なんですけどね。
んで、その記事に対して、何名かの人が
こんな感想を送ってきてくれました。
「かさぶたを取っていくことが統合と言えそうですね」
と。
これに関しては
うーん・・・ちょっと違う、かな?
というのが個人的な感想だったんですが、
しばらくその理由がわからず悶々としていました。
ですが先日ある人とお話しさせていただいて、
ようやくその理由がわかりましたので
少しばかりお話しします。
まずかさぶたについて。
これはwakeupの人間セミナーの話なので
受けていない人のために解説しますが、
かさぶたってのは性格(人間の反応の傾向)
を示すものなんですよね。
スライドを抜粋しますが、
性格とは何か
・性格というのは、心理学的には
・「幼少期に満たされなかった基本的なニーズの穴を埋めるために発達もしくはかさぶたもしくはギブスのようなもの」
・と解釈される
・性格というのは傷の場所、すなわち今後癒す必要のある場所を教えてくれる手がかりになる
・本質へ戻ろう、本来の自分として生きようという思いがあるのにそれができないのは、性格という「殻」に閉じこもり、安全を確保する術を数十年間磨き続けてきたから
これが性格であり、かさぶた理論なんですね。
統合とは違う、その理由はわかりましたか?
せっかくなので、ちょっとずつヒントを出していきます。
1.このセミナーって人間セミナーですよね。
2.心と体を分けるのを統合することがインテグラルですよね。
3.私は先ほど性格を「人間の反応の傾向」と書きました。
つまり、こういうことです。
性格って心なの?
これをとっていくことが体や失われた何かを
統合していくことになるの?
こういうこと。
・・・違いますよね。
「人間」セミナーなんです。
たぶんですけど、木坂さんは「心」という
単語をほとんど使っていなかったと思います。
つまり、木坂さんの「性格かさぶた理論」は
そもそも論として「心」の話ではなく、
「人間」としての機能の話をしているんです。
そして、かさぶたを取っていくことが
人としてのステージを上げていく方法なんですよ、
ということを言っていた(ハズ)。
つまるとこ、木坂セミナーは
そもそも心と体を分けていない、
ということが推測されるんですね。
あくまでも、かさぶたを取ることは
本質に戻る(人としてのステージを上げる)
ために必要なこと。
統合は(心と体に限って言えば)
失われた「人間」を取り戻す試みです。
そこをごちゃごちゃにしてはいけない、
というか混ぜるとややこしいかなというのが
私の考えなんですね。
ちなみにこれは余談になりますが、
「使える心理学」セミナーには
こんなスライドがあります。
「心理学は生態学であるべき」
この辺りからも、木坂さんは既に
心と体を統合して考えていることが
なんとなくわかります。
というのも、生態学とは簡単に言うと、
「関係性」を重視する学問です。
つまり、心と体を分けて云々するのではなく、
その人と何かの関係からどんな反応が起こるのか、
を分析するのが心理学だということです。
心がどうなるか、ではなく、
こんなとき人間はどうするのかを
見る学問なんですね。
心理学とはそうあるべき、という意味。
まあこれ以上は1記事書けちゃうくらいに
なりそうなのであとは各自で対話してほしいですが、
そもそも論として
インテグラルを主張する木坂さんが心と体を
分けた話をするのはちょっとおかしいよね
っていうことで強引に〆とします。
何か参考になれば。
んで、これに関して(正確には分節化について)
おもしろい仮説を送ってきてくれた人がいましたので
少しばかり紹介します。
(「かさぶた」って表現がありますが、
これについての私見は先の通りですので、
「フィルター」と置き換えて読んでみてください。)
そもそもかさぶたって分節化から生まれたと思うんです。
だからこそ、ある人にとっての分節化と、他の人にとっての分節化は
異なっているし、文節の価値も変わってきます。
(価値観のちがいって分節化の違い=切り取った世界の違いって
ことですね。もちろん防衛本能で切り取る世界もあるでしょうしね。)
余談ですが、Kさんの説明にもあった人間の6段階(生理的人間~
政治的人間)ですが僕は分節化のパターンだと捉えていました。
まぁ、世界の切り取り方のパターンですかね。
で、統合(かさぶたをとっていく)ですが、
どうやって統合していくかというと「直観」になるんじゃないかと
思っています。
なんで?ってなるかもしれませんが、木坂さんの言葉を借りれば
StayGoldで言われていた
「直観により捉えられた世界は、我々が現実だと思っている世界より
現実的である」
というこの部分だったりします。
まぁ僕が現実をフィルターなしで捉えられるというのが本質に
近づくということだと思っていること。
後、分節化は理性の部類なのでここから離れる
必要があるなと思ったからですかね。
まずここでのポイントは、
「フィルター = 分節化」
ですね。
人によってモノの見方が違う
人によって物事の切り取り方が違う。
これはほぼイコールです。
これは言い換えれば、同じものを見ても
人によって違うものを取りこぼしているし、
違う形にも変わっている、ということ。
私は先日の原澤さんのPDFをあのように見ましたが、
ルサンチマン的だと感じた人もいたし、
奴隷を興奮させるだけで、原澤さんが呼びたい人は
来ないんじゃないかと分析する人もいました。
私を含め、どれを取ってみても、
一部分しか切り取っていないことがわかります。
人によってフィルターが違い、切り取り方が違う。
これはコミュニケーションの齟齬にも
そのまま繋がりますし、
しかし逆に言えば、いろんな人と話せば
自分が切り取ってなくしてしまった部分にも
気づける可能性があるということでもあります。
切り取り方の違いによって
かさぶたのでき方も変わってくる
ということもあると思います。
タイプ分析と絡めてもいろいろ学びになりそうですね。
で、ここからが本題なんですが。
個人的に1番学びになったのがここです。
「直観により捉えられた世界は、我々が現実だと思っている世界より現実的である」
これね。
ここから得た学びは「統合」のもう1つの
側面につながるわけですが、ちょっと飛躍が
ありすぎるので順を追って説明します。
まず、フィルターを通さない世界って何なのか。
物事を切り取らない前ってどんななのか。
この辺がいまいちピンと来てなかったんですが、
生態学の話とかいろいろ絡めて考えてたらなんとなく
腑に落ちた、というのが学びのスタートでした。
これはよく原澤さんが言うことですが、
地震が起こって1万人が死んだ、
これは悪いことでも良いことでもない。
悲しいって思うのは日本人くらいで、
地球から見たら良いことかもしれない。
原澤さんをチェックしている人からすれば
けっこう聞き慣れたワードですよね。
これはフィルター次第で
物事はどのようにも見ることができる、
という話です。
ということはですよ?
じゃあ物事はフィルターを通さない状態では
どんな感じで存在しているのかって考えると、
必然的に、
どのようにでも受け取れる状態で存在している
ということになりますよね。(よね?)
フィルター次第で悲しくも嬉しくも、
善くも悪くも、東電この野郎とも、
どのようにも受け取ることができる。
ならば、フィルターを通す以前は、
すべての受け取り方の可能性を内包している、
ということになるはずです。
私たちはフィルターを通すことで
その無限にある可能性の中から、
「1万人なんて悲惨で悲しい、東電死ね」
などの1つの可能性を切り取っているわけです。
しかしながら、日本嫌いの人なら、
「ひゃっはー!日本人1万人死んだぜ!」
という可能性を切り取るかもしれないし、
原発反対派なら
「だから原発はダメだと言ったんだ、俺は正しかった」
という可能性を切り取るかもしれません。
いずれにせよ大事なことは、私たちは
無限にある可能性から1つないし複数を切り取っている
ということになるってことです。
切り取れば切り取るほど、分ければ分けるほど、
無限にあった可能性は狭まっていきます。
細かくすればするほどそのパーツについては
詳しく理解できるけど、しかしながら、
そのパーツでは何もできなくなるのと同じです。
人間も細かく分ければ分けるほど、
できることは少なくなります。
この辺は、キャラとかと絡めてもおもしろそうですね。
いずれにせよ、分けるということはそういうこと。
逆に言えば、分ける前は無限の可能性を秘めているということ。
と、いうことは。
統合すればするほどその可能性は無限に広がっていく
ということになりますよね?
つまり、統合ってのは
狭まってしまった可能性を∞に戻していく試み
という意味にも取れるんです。
その∞が何を指すのかはわかりませんが、
まあ原澤さんの言う引き寄せとかヒーリングも
その可能性に含まれるかもしれません。
いずれにせよ、分節化が物事の可能性を狭めるなら、
統合は可能性を広げる作業だと言えるってこと。
そして、これが統合をするもう1つの意味なんだなと、
そう気づけたわけですね。
まあ可能性を広げるということは、
ある意味では取り扱いが難しくなることと
イコールになりそうですから、
ただ単純に統合していけばよく、
切り取ることが悪になるわけでもないんですが、
しかしながら分節化には可能性を狭める代わりに、
物事を理解しやすく、わかりやすくする側面があり、
統合には可能性を広げる代わりに
扱い方を難しくする側面がある。
こんな気づきがありました。
まあどちらも一長一短ありますので、
やはりここも、自分にとって必要かどうか、
という視点で考えてほしいと思います。
いずれにせよ、こういう気づきを得られた
ということでメールを頂けた皆さんには
感謝しきりです。
というわけで、今回は私の学びのシェアでした。
それではまた。
ありがとうございました!
K