歴史+地政学コース0回目 〜しまださんの記事を叩き台に〜


お盆です、Kです。


木坂さんの新しいマスタークラス、
西洋思想史、歴史+地政学のセミナーが
いよいよ始まりました。

(知らん、という人はこのレターをどうぞ)

今回私はビデオ受講なので
ようやく0回目のビデオが届き
ようやく記事を書けている次第でございます。

相変わらずビデオが届くのが遅(ry


なのでもしリアルタイムの話を聞きたいとかであれば、
しまだしんすけさんのブログがオススメです。

既に1回目のセミナーは終わっているようで、
その記事もアップされています。

これです。


んで、せっかく見ましたし、
ちょうどそこにしまださんの記事がありますし、
少しばかり叩き台にして記事を書いてみようと思います。


一部の皆様おまたせいたしました。

なんか久しぶりですね。

maruさん以来かな。


まずはこの記事を読んでからお読み下さいませ



【「余り」を通した世界の見方 】


さて。


歴史+地政学です。


まず「余る」ってキーワードなんですが、
これ何を言っているかというと

「富める者はますます富み」

とほとんど同じ意味で取っていいと思います。


つまり、何かが余っているということは
そこに余剰分があるのであって、

お金なら投資に、人に、武器に、情報にと
変えていくことができる、

エネルギーが余るならお金に、テクノロジーに、
広義の意味で解釈すれば
時間や行動に変えていくことができる


とまあこんな感じで、


「余り」を他のものに活用、変換できる余地ができてくる


ということです。


この辺は日々忙しいサラリーマンとかは
まず時間もお金もエネルギーも余らないので
他のことに気を回すことができない。

とかを考えてみるとよくわかるんじゃないかなー
と思います。


これは世界を見るときにも同じであって、
かつてのメソポタミア文明では食料が余っていた。

かつてのキリスト教圏では
人材と武器とキリスト教が余っていた。

かつての高度経済成長期の日本では
人材と技術と品物が余っていた、
と取ることができます。


だからこそ、あそこまでの繁栄を遂げたのだ、

というのがセミナーで言われていたことです。

「余り」が勝者を決めるわけですね。


ただし。


この人材や品物が余るというのは
島田さんも言っているのでわかると思うんですけど
(要は輸出や移民ですね)、

難しいのは

武器やキリスト教が余る

っていう感覚ではないかと思います。


これ、どういう意味かわかります?


これたぶん大事なので、
自分なりに考えてほしいですが、
考えたと信じてお話します。


まず武器。


武器が余る状況とは何か、
と考えてみるにあたって重要なのは


「そもそも武器は何のために制作されたのか?」


ということです。


「狩り」


ですよね。


でも、食料が余るようになり、
技術が進歩して大量に作れるようになると
武器が余ってきます。

そうなると何に使われるようになるかといえば
人を攻撃するための道具になり、
それに対する防衛力として使われるようになります。

つまり、初期の武器の余りは
個人レベルでの武力として扱われるようになる
ということです。


そして、これがさらに余っていくとどうなるか。


一部の人によって集団としての武器として
使われるようになる。

つまり、「軍」になっていきます。

要するに武器は余れば余るほど
侵略と自衛の意味で使われる余地が出てくる、
ということです。


ですから、一義的には

武器が余る方がより強く侵略しやすい

ということになる。


だからこそ余っている人や国こそが
勝者になりやすい、というロジックです。

(当然ながら、逆に言えば食料が足りない国は
 武器が余らないですから弱く、
 侵略されやすい国になります)


・・・まあ近代の武器は人を殺すことや
国を滅ぼすことに特化していますから
「狩り」の意味での武器ではないです。

ただ、歴史的な意味で捉えたとき
この「武器の余り」が侵略の引き金の1つであり、
国家間のパワーバランスを決めたことは間違いない。


このことをさらに踏み込んで考えると

「武器が最初に余った国」が勝者となっていった、

という可能性すら考えられると思います。


また、キリスト教が余る、という感覚も
この感覚に近くて、キリスト教ってのは

「他の人に布教すれば、布教した人も救いに近づく」

という性質を持った宗教です。


ですから敬虔なキリスト教徒は皆に広めたいわけで、
普通は国内においてそれが行われます。

でも、かつてのローマ帝国のように
全支配地域をキリスト教徒で満たしてしまうと
その布教先がなくなってしまいます。

そうなると、キリスト教を広めたいという
「思い」が余ってくるわけです。


それに武器の過剰と人材の過剰、
船などの移動手段の過剰が重なれば
ああいった世界的な移動が起こるようになるわけです。


これが「余る」という感覚です。


・・・たぶんね。


では、その上で考えてみましょう。


「人が余る = 移民」


って島田さんは言っていますけど、
移民ってネガティブイメージありません?

移民が来ると国は徐々に停滞していく、
国の滅びの第一歩みたいなニュアンスで
取ってませんでしょうか。

そして今移民元の国もぐちゃぐちゃの
イメージありません?


でも、島田さんはこう言ってます。


人が「余る」という意味で、移民は富の源泉だと。



これ、意味わかるでしょうか。


もしわかれば「余る」って感覚は
腑に落ちていると考えていいんじゃないかな
って思います。

そして、物事を客観的に捉えることができてきた、
ってことじゃないかなと思います。

私も移民に対してネガティブなイメージありましたけど、
そこから少し抜けられた気がするので。


なので宿題として考えてみてください。

けっこう大事だと思います。

送ってくれればお返事したいと思いますので
おヒマな方はぜひ。


んで、最後に。


島田さんがこう言っていますね。


逆に、、、

何を余らせていくのか

っていう視点も大切。



これ、すっごく大事だと思います。


そして、それを考えたら


どうやって余らせていくのか。


なぜ、余らないのか。



こういったことを考えていく必要があるなと
個人的には思います。


ほんでは、今日はこの辺で。

次回は西洋思想史の方についても書こうと思います。

ありがとうございました!







P.S.

この記事けっこう独自解釈入ってますので、
注意してくださいねー。

どこかっていうと、キリスト教が余る、とかです。

木坂さんが「余る」の例に出していたのは
島田さんも言っている通り

「食べ物、お金、武器、人、知識、時間、アイディア、
情報、土地、技術、エネルギー・・・」

です。


でも、思想とかも余るよなあ、って考えたとき、
思いついたので書いてみました。

意見反論、あなたなりの独自解釈等も
送ってくれると嬉しいです。

楽しみにしています。

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