新年に意識したい「絶望」の感覚


こんにちは、Kです。

正月です。

正月なのにこんな記事を書いてるKはヒマなのか、
というツッコミは正しいと思いますが、
一記事書くのに2、3日はかかってしまう私です。

当然正月を見越して準備をしていた挙句、
なぜか新年直前まで文章を推敲しておりました。

時間というものは本当に不思議だなあと
痛感している次第でございます。


さて、あけましておめでとうございます。


準備の年を終え、行動の年を終え、
さあ今年はなんなんだという2016年ですが
私の方の今年最初の記事は

「絶望」

というテーマで書いてみたいと思います。



絶望。



新年から絶望って・・・

っていう素敵なツッコミがまた入りそうですが、

木坂さんで勉強し続けた去年の1年間、

結局スタートは絶望でしたので、絶望です。


これ、本当にそうで。


・正解なんて何もない。
・自分って思ったよりもすごくない。
・書いたことは伝わらない。
・自信は妄想。
・本は読めない。
・思い通りにいくことなんてほとんどない。
・自分の意見はまったく正しくない。


こうやって書いちゃうと気分が落ち込み
そうなんですけど、これが現実なんですね。


特にこれは「7つの鍵」っていう
ライティングセミナーで言われてたことですけど

「私たちは自己評価が異様に高い。
それはどこの国、どの職種であっても
共通して見られる人間の性質です」


つまり私たちは自分を過大評価するがゆえに
何をするにも傲慢になってしまうんです。


これは例えば文章で言えば

「これはいい文章を書いたぞ!」

って思っても、木坂さんに

「これ10分の1の分量にしていいですよ」

って言われる内容の文章であることが多いとか。


例えば自己評価が高いが故に

「他の人にはこれは伝わらないだろう」

とか思っちゃって、余計な言葉を足したり、
話のレベルを下げてしまって
人を小馬鹿にしたような文章になってしまう。

その結果、売れないとか。


なんてことに私たちは往々にして陥ります。


(もちろん、木坂さんが言うから正しい、
なんてわけでもないんですけどね)


私たちはいつも世界を正しく見れなくて、
自分のことをどこか過大評価しながら
しかもそのことに気づかず生きています。

さらにタチの悪いことに、そのことを
指摘されると耳がパタンと閉じてしまう。


これは脳科学の研究的に
「自分が正しい」と思っていることを
誰かに突かれたり指摘されたりするのは

実際に殴られるのと同じくらいの衝撃が
(脳にとって)あるらしいのです。


そんな危険な衝撃から身を守るために、
私たちは無意識にそういった指摘に対して
Fight or Flightしてしまう。

しかもこのFightは「うっせえ!」的な
反抗的な態度に出てくるし、

Flightにしても「耳がパタン」になるので、
どっちを選んでもその人に得はなく、
永遠に成長することなく終わってしまう。


この辺はあの有名な哲学者たちですら
なかなかできなかったことで、

カントなんか自分の説を否定されると
火を吹く勢いで激怒したとか言います。

あんなに人間の認識について考え、
様々な批判を提言してきた人でも
やはり自分のことは棚に上げてしまう。


辛いもんですが、人間ってそういう生き物のようです。


ライティングセミナーで木坂さんは言っていました。


「君にそんな中身はあるのかい?」


・・・耳がパタンと閉じていませんか?


私は閉じます苦笑


さて、絶望です。


新年早々から暗い話が続いておりますが、
これは決して絶望しろって意味ではなくて、
むしろ結論から言ってしまうと

「だから頑張れ」

って言っています。


結局のところ、相手には伝わらない、
と思うからこそ本気で書くことができるし、

自分なんて大したことないと思うからこそ
今できる最善を尽くすことができる。

そしてまだまだだと思うからこそ
成長しようという意識も保てるわけです。


そしてこの辺の絶望の意識があるからこそ

「良い意味で相手に期待しない」

ということができるし、

「良い意味で自分にも期待しない」

ということができてくる。


これセミナーとかではよく言われてますけど、
予想以上に実践するのが難しい。

私もセミナーに行くたび実感しますが、
どこがで自分はすごいって思ってる。

他の人はしょーもなくて、
勉強してない無知な人だと思っている。


それじゃあダメなんですね。

自分は思ったよりもすごくない。

自分の方が無知であることはたくさんある。

何より正しい答えなんてどこにもないのです。


そういった絶望をして初めて、
「身の丈」にあった努力をすることが
できるようになってきます。


この「身の丈」って感覚もとても大事なので
説明しますけど、これは決して「身の程を知れ」
みたいなネガティブな意味ではなく、


「自分に今できることを理解した上でその役目を全うする」


ことを身の丈に合った努力と表現しています。


もう少し別の表現をすると、アリストテレスのいう

「エネルゲイア」

とかも近いと思います。


知らない人のために補足すると、
エネルゲイアってのはその人がその人の役目を
十全に発揮していることを指す言葉です。

ですからお笑い芸人が顧客を笑わせて
幸せな気持ちにしているなら、それはお笑い芸人の
エネルゲイアを達成していることになります。

水泳選手なら自身の最高の泳ぎによって
人々を感動させていればいい、ということです。


そういった可能性を花開かせることを
エネルゲイアと呼ぶわけです。


だからエネルゲイアってのは
決してお笑い芸人に水泳をしろとか、
水泳選手に舞台に立って人を笑わせろ
ということを要求しているわけではありません。

水泳選手は水泳選手として、
お笑い芸人はお笑い芸人として、
自分の可能性を最大限に花開かせている状態。

自分が得意なこと、できること、役に立てること、
そういったことに全力を尽くしていることが
その人にとってのエネルゲイアと言えるわけです。


ですからエネルゲイアってのは
ある意味で自身の「身の丈」がわかっていなければ
行うことはができないものです。

なぜなら身の丈を超えたことをしようとすることは
水泳選手がお笑いをするようなものだからです。

だからそうじゃなく、今の力量を把握して、
自分にできることからやっていこうとするからこそ
エネルゲイアが達成される余地が出てくる。


そういう身の丈の感覚を理解するために
やはり「絶望」が必要になってくるんです。


そういう意識を持ちたいわけですね。


んで、せっかくなので去年配られたレポートの
一節を紹介したいと思います。

確か和佐木坂ラジオのプレミアムだったかな?

文章の前半は文脈が読み取れないと思うので
無視してもらって構いませんが、注目してほしいのは
「申し訳ない」という感覚です。


ではどうぞ。



さっきも言ったように、僕個人として一番の称号も称賛も何も欲しくないが、それだけ価値が提供できるかもしれないと思うと頑張る気になれる。人前で話すこと自体ストレスなのだが、その場所で僕が一番価値を提供できるとすれば、それをやらないのは世界に対して申し訳ないと思う。

コンサルをしていて一番違和感を感じるのは、ほとんどの人がこの「申し訳ない」という感覚を持っていないということだ。自分の才能を開花させないのは、自分を生かしてくれているこの世界に対して「申し訳ない」となぜ思わないのだろうか。

例えば目の前に餓死しそうな人がいたとする。食べ物が余っていたら、とりあえず分けるだろう。目の前でいじめられている子がいたとする。とりあえず止めるだろう。目の前で飛び降り自殺しようとしている人がいたとする。とりあえず思いとどまるように説得するのではないか。素通りして、罪悪感も何も感じない人なんて、そうそういないだろうと思う。

世界には満たされない領域が無限にあり、そのせいで満たされない人たちが無限にいる。その人達を“自分が持っている何がしか”で「少しでも」満たせるとしたら、なぜそれをしようと思えないのか。




この文章も結局のところ、

「今できることがあるなら何故しないのか」

という身の丈の感覚を言っています。


今の自分は全然大したものではないけれど、
成長の余地もたくさん残されているけれど、
でも、今の自分でもできることはある。

それがビジネスになることもあるだろうし、
今の職業でそれができるかもしれない。

少なくとも、自分に求められていることがあるなら
それに全力を尽くしたらいいじゃない。


そんなことを言っているわけですね。


話を戻しつつまとめに入りますが。


今回の記事をまとめると、


自分を極端に過大評価するでもなく、
しかし過小評価するでもなく、
身の丈にあうことを全力でする。

そういう気持ちを持ちながら
今年の1年を頑張れたらいいなあ。

なんて個人的には思っている、

ということです。


皆さんも納得できる部分がありましたら
一緒に頑張っていきましょう。


それでは、本年もよろしくお願いします。

ありがとうございました!




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