お説教 〜インスパレーションとの対話④〜


こんにちは、Kです。

最近前置きがないですね。

今回もありませんが。


さて、今回もインスパレーションと
対話していきたいと思います。

今日は第4回、木坂さん的にはメンタリティ、
説教臭い話になるとのことですが、これらを

「うっせー説教だなあ」

と受け取るのではなく、自分に生かし、
人生を変えるレベルの学びにできるよう
頑張っていきたいところです。


それでは参りましょう。


今日の文章はこちら


英文は


Write for the most intelligent, wittiest, wisest audience in the universe: write to please yourself. —Harlan Ellison


です。


筆者はハーラン・エリスン。

「世界の中心で愛を叫んだけもの」という
短編集を書いたSF作家さんのようです。

片山恭一のパクリじゃないかと思いきや、
どうやらこちらが元祖のようですね。


知らんかった。



【インスパレーションその4】


さて、それでは対話していきたいと思いますが、
今回の英文、というかレポートは
どう味わえばいいかが最初に明言されているので
個人的にはかなりやりやすいレポートでした。


皆さんはどうだったでしょうか。


Write for the most intelligent, wittiest, wisest audience in the universe: write to please yourself.


英文としてはさほど難しくないですよね。


今回も解釈を送ってくれた人がいるので
それを活用させていただきます。


=============================================

>
>今回のこの英文ですが、文書で木坂さんが言っているように「:」に注目ですね。
>今まであまり気にしたことはなかったのですが調べてみるとコロンには
>関連項目の列挙、引用前、詳述・言い換えといった意味があるそうです。
>
>
>コロン前の「全人類で最も知的で、機知があり、賢い相手に執筆する」ことと
>コロン後の「あなた自身を満足させるために書く」
>は、ほぼ同じことを言い表していることになりますね。
>

=============================================


ありがとうございます。


この訳を使わせていただくならば、この文は

「書くことは喜びなのだ」

ということを言っていることがわかります。


喜びなのか満足なのかは難しいところですが、
読み方としては間違ってないと思いたい。

後半部は今言ったみたいな訳で、
前半部はどんな人に向けて書くのが喜びなのか
って部分が説明されています。

コロンの意味さえわかれば構成としては
シンプルなので、難しくないですよね。


「全人類で最も知的で、機知があり、賢い相手に書く。
それは自身を喜ばせるために書くことと同じである」



※意訳含んでます。


以上、英文終わり。


今回は楽。


ありがたい。


※ちなみに書くことを「喜び」に繋げるには
「audience」という単語も大事なんですけど、
それは後で話します。


続いてレポートと対話していきたいと
思いますが、最初にも言った通り、
今回は対話の指標がかなり明確です。


レポートの最初の方にこんな言葉がありますね。


>「似たような言葉に」


2文目です。


で、こう続きます。


>「聴衆は完全に無知だと思え、しかし極めて高度な知性を持つと思え」


わかります?


・全人類で最も知的で、機知があり、賢い相手に執筆する
・あなた自身を満足させるために書く
・聴衆は完全に無知だと思え、しかし極めて高度な知性を持つと思え



これ、全部似た意味だということです。


まあどんな意味で似ているのかは対話していく
必要がありますが、少なくとも木坂さんは
そのように考えていることはわかります。


ですから私たちは最低限この3つの文が
繋がるまで対話していく必要がある、
ということが最初の文でわかるわけです。


※もちろん解釈は人それぞれなので
自分なりにまったく違う解釈をするのも
アリと言えばアリなんですが、

今回は「木坂さんになりきって」という
スタンスの対話にフォーカスしたいので
木坂さんの解釈を追いかけます。

そういう意味での「指標が明確」という
解釈です。


なんのこっちゃかわからなくなってきたので
まとめますが、英文的にハーランさんは


・全人類で最も知的で、機知があり、賢い相手に執筆する
・あなた自身を満足させるために書く



これらの文が同じ意味だと考えている。


さらに木坂さんはこの2つの文と


・聴衆は完全に無知だと思え、しかし極めて高度な知性を持つと思え


この文が似た意味だと考えている。


ですからそこを繋げて理解できないと
そもそも対話できないですよね、って話です。


うん、スッキリ。


んで、実際にやっていくんですが、


・全人類で最も知的で、機知があり、賢い相手に執筆する
・あなた自身を満足させるために書く
・聴衆は完全に無知だと思え、しかし極めて高度な知性を持つと思え


この3文、繋がりますか?


繋がるなら正直もう読まなくていいです。


読まなくとも応用すればいいだけですので。


「なぜそんなこともできないのか」
「なぜそんなことすら知らないのか」
が、なぜ正しくない問いかけなのか。

「なぜそんなこともしないのか」
「なぜそんなことすら知ろうとしないのか」
が、なぜ正しい問いかけなのか。

これらも自然とわかってくると思いますし、


「今」無知であることと、その人がバカであることの間には何の関係もない。(中略)ただ知ればいいのだから。



この文章の意味もわかると思います。


最後の「他者を裁くな」という言葉も
木坂さんなりの言い換えでしかないことも
わかると思います。


・・・ここまで言えばわかりますよね?


わからない人は頑張って読んでください。


要するにこれは


「相手の可能性に対しての姿勢」


を語っているレポートだと私は思います。


「全人類で最も知的で、機知があり、賢い相手」

これは現時点でそうというわけではなく、
そうなる可能性を秘めた人たちである、
ということです。


「聴衆は完全に無知だと思え、
 しかし極めて高度な知性を持つと思え」


この聴衆たちは今でこそ何も知りませんが、
高度な知性を持ち、全てのものを理解し、
自分に生かしていく可能性を持っています。

場合によっては語り手である私たち以上に
成長する可能性だってあるかもしれません。


要するに、誰でも可能性に満ちている。


「今」無知であることと、その人がバカであることの間には、何の関係もない。




この文章のままなんです。


「今」は無知でもその先知っていくことで
大きく成長する可能性もありますよね。


それは例え肢体不自由や知的障害などの
ある種の物理的ハンデを抱えた人でも
何ら変わりはありません。

それこそ私たちの身近な例で言えば
和佐さんとかがその典型例ですし、

他にも肩から下が麻痺しているけど
見事な絵と詩を書き上げる
星野富弘みたいな人もいます。


そういう人たちはハンデ的に
普通の人より「難しい」だけであって、
「不可能」というわけではないんですね。

彼らに不可能なのは
「立って自分の筋力だけで走る」
などの物理的制約のあることだけで、

それにしたって医学の進歩によって
可能になる可能性も秘めていますから。


私たちは可能性の塊である。

だからそれを勝手に裁くなと。

相手の可能性を信じろと。


そういう当たり前の話がされているわけです。


しかし、です。


現実はどうかっていうと私たちは
いろんなことを不可能だと感じ、
それを目指す人を否定し、小馬鹿にしますよね。


無理だよ。

とか

危ないよ。

とか言って。


結局、その人の可能性を否定し、
小さい世界に押し込めようとするのは
いつも「その人に関わる外部の誰か」です。


このことは子育てとか教育現場などで
起こっていることがそのまま当てはまります。


なぜなら、彼らの大半は早々にその子の可能性に
見切りをつけ、“その狭まった可能性の範疇”の中で
最善を尽くそうとする存在だからです。

これはよく原澤さんが言うことですが、
子どもを気にかけているように見せかけて、
実は自分や周囲の都合の良いように自身のエゴを
押し付ける、とかが典型ですよね。


それ以外でも例えば進路相談とかで
それほど手のかからない、妥当で無理のない
志望校に導こうとする教師もそうです。


で、そう教師に言われた子たちは

「僕には無理なんだなあ」

と自分の可能性を閉じることになるわけです。


私たちの何気ない言動が、相手の無限の
可能性を閉じさせちゃうんですよね。


今の子どもは何もやる気がない、と言われますが、
やはりその子の可能性を閉じさせるのは
その子と関わる誰かです。


自分自身じゃないんですよ。


だって、小さい子を見るとわかると思いますが、
彼らは何だってやろうとしますよね。

おぼつかない手つきで、危なっかしい様子で、
しかし確固とした意志を持って、
何らかのことに取り組もうとします。


寝返りとかそうですよね。

最初はひっくり返ったら元に戻れないんです。

で、うつぶせになって窒息して泣く。


親の方は何度も見たことがあると思いますが、
うつぶせになったら辛いことがわかっていても、
彼らは何度でもやるんです。

何度もひっくり返って、何度も泣いて、
何度も親に元に戻してもらいながら、
それでも懲りずにひっくり返る。

で、元に戻れずまた泣くんです。


なぜ彼らはやるのか?


できると思ってるからです。


もう少し大きくなった子どもも
同じことが言えます。

小さい子どもは少し難しいことや、
明らかに難しいことに挑戦し、
できないと癇癪を起こしますよね。

で、癇癪を起こしながら、
しかしそれでも何度でもやる。

手助けすると怒る。


そういった外部から見たら意味不明で
理不尽に思えることでも、

・なぜ癇癪を起こすのか、
・なぜそれでもやり続けるのか、
・なぜ助けると怒るのか

これらのことを考えれば彼らの感覚が
少しわかってくると思います。


つまるところ、そういうことです。


できると思ってるし、やりたいんですよ。


そして、できないとは微塵も思っていない。

だからこそ手伝おうとすると怒るんです。

自分の可能性を閉じさせようとする行為に対して。


結局、相手の可能性を閉じてくるのは
その子に関わる外部の誰かです。


寝返りをして泣く子どもに対して
「やらなきゃいいのに」
と思ってしまう親がどれだけ多いか。

できないことで癇癪を起こし、
手助けをすると怒る子どもに対して
面倒くささを感じる親がどれだけ多いか。

その親たちの一挙一動が子どもに
「できない」を突きつけ、
可能性を閉じていくんです。


それは教育ではなく、洗脳ですよね。


私たちのようにリーダーになろうとする人たちは
相手の可能性を広げなくてはなりません。

そしてそのためにはこのレポートに書いてあるような
可能性に対する姿勢を身につけないとダメだよ、
というようなことが書いてあるのだと思います。

リーダーとしての心得第1ヶ条です。


んで、そんな姿勢について確認してみたところで。


今度はそれを「喜び」に繋げてみましょう。


なぜ書くことが喜びに繋がるのか、ですね。


ここを考える際にポイントになってくるのが
さっき言った「audience」という単語です。


意味は「聴衆」。


これがどう喜びなのかってことなんですが、
それはこの単語の持つニュアンスを
考えてみれば普通にわかると思います。


つまり「聴く」。


「聴く」は「聞く」と違い
能動的なニュアンスを含みます。

ですから「audience」とは
自分から望んで話を聴きにきた人たち、
あるいはその場所を指した単語なんです。


ですから先の解釈を踏まえると、
そういった無限の可能性を秘めた人たちが
率先して私たちの話を聴きに来ている。

そして、私たちは彼らの可能性を広げ、
実現していく手助けができる。

それは喜びじゃないかと。

そういう感じに繋がっていきます。


まあこれを喜びと感じるかは人それぞれですが
それを喜びと感じられる人は木坂さん的には、
リーダーとして必要な素養を身につけた人
ということになるんでしょうね。


それでは今回はこの辺で。

少しでも役に立てば嬉しいです。

ありがとうございました!





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